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トップページ > インタビュー > 『シークレット・サンシャイン』イ・チャンドン監督 インタビュー

イ・チャンドン監督 インタビュー

2008-06-5 更新

シネがまさにチョン・ドヨンさんであったように、ソン・ガンホさんもジョンチャンそのものだったと思います

シークレット・サンシャイン

イ・チャンドン監督

1954年大邱生まれ。慶北大学師範学部国語教育学科を卒業後、81年から87年に高校で国語教師として教壇に立つ。83年には『戦利』で小説家としてデビュー。87年には『運命に関して』、92年には『鹿川には糞が多い』と小説を発表し、高い評価を受ける。93年に、友人であるパク・クァンス監督の『彼の島へ行きたい』の脚本家兼助監督として映画界に進出。97年にハン・ソッキュ主演の『グリーンフィッシュ』で監督デビューを果たす。ソル・ギョングを主演に迎えた第2作の『ペパーミント・キャンディー』(99)では、大鐘賞の主要部門を独占。第3作の『オアシス』(2002)はヴェネチア映画祭を受賞、主演のムン・ソリも新人女優賞を受賞する。03年には一時映画界から退き、ノ・ムヒョン政権の文化観光部長官に就任、韓国における日本文化の解放など様々な文化政策の実現を果たす。映画監督復帰後の07年には、東京フィルメックスでコンペティション部門の審査委員長を務めた。

配給:エスピーオー
2008年6月7日(土) シネマート六本木ほか全国順次ロードショー

 イ・チャンドン監督の最新作『シークレット・サンシャイン』が公開される。チョン・ドヨン、ソン・ガンホという名優2人を主役に据えて魂の苦悩を描いた本作は、カンヌ国際映画祭でチョン・ドヨンに主演女優賞をもたらし、各国でイ・チャンドン監督の映画界復帰に相応しい反響を得ている。昨年の東京フィルメックスでのお披露目に続き、公開を控えて来日した監督に話を聞いた。

-----本作が上映された2007年の東京フィルメックスで、「宗教や信仰は、人生の意味を考える行為のひとつだ」と言われていましたが、現代の大部分の日本人は宗教とは無縁の生活を送っていますし、自分の経験した苦しみに意味があると考えている人も少ないと思います。何度も来日されて目にしている現代の日本人は、生きることへの意味・希望・救いをどのように求めるべきでしょうか?

 日本の方たちはとても宗教的で、日本では宗教が日常生活に入り込んでいる気がします。日本で歩いていると、小さな神社や祭壇をよく目にしますし、そういった場所でお祈りをしている人の姿を見ることもあります。宗教とは大層なものでなければ、特別なものでもないと思います。宗教がすごく大層なものであると受け止めれば、いろいろな問題が生じてくるので、文化や精神の一部だと思い自然に受け入れるのが、宗教本来のあるべき姿だと思います。
この映画のシネというヒロインは、とにかく宗教の中に明確な答えを求めていますが、その反面、ジョンチャンは「なぜ教会に通うの?」と聞かれると、「通わないと寂しいし、行けば何となく気が楽になるから」と無意味な答えをしています。シネとジョンチャンは非常に対照的で、宗教に求めるものも、このようにふたつあるのではないかと思います。どちらが良いとは言えませんが、宗教を考えた場合には双方にとても大切な価値が含まれている気がします。

-----この映画には、かなり痛烈な宗教批判・教会批判が含まれていますが、そういった点に対する韓国での反響はどのようなものだったのでしょうか?

 確かにこの映画のメッセージは宗教批判と捉えることもできますが、別の見方をすれば、宗教の重要性・必要性も説いていると思います。韓国でも「これは宗教批判の映画ですね」と言う人もいましたが、その反面、キリスト教徒の間にも好意的に見て下さる人たちもいました。中には、「キリスト教をより深く理解させてくれた」と言ってくれた牧師さんもいて、その牧師さんは、信者に話す時「ぜひ、『シークレット・サンシャイン』を見なさい」とさえ言ってくれました。この映画についての本を書いた牧師の方までいたほどです。このように、韓国ではこの映画に対する両方の見方がありました。

-----韓国政府の文化担当大臣に就任されましたが、監督に戻られてから、そのことは何か影響はありましたか?

 映画製作にあたり、公職に就いていたことは全く影響がありませんでした。数年ぶりに映画作りを再開したことによるぎこちなさや、現場でのちょっとした違和感は感じましたね。ただ、その時点では公職のことはすっかり忘れていましたが。

-----映画のラストで、チョン・ドヨンさん演じたシネが、美容室で働く犯人の娘が途中まで切ってくれた長さに合わせて自分の髪の毛を切るシーンがありますが、これは赦しを意味しているのでしょうか?

 あのシーンは、赦しを意味していたと言えるかもしれません。ご覧になった方なら判ると思いますが、美容院のシーンで、シネは鏡を通して犯人の娘の顔を見ていました。その時のシネの表情を見ると、ことばでは言い表せないような憐れみや同情、心の痛みを感じていたと思いますし、その姿は、鏡を通じて観客にも伝わったと思います。ただし、シネはその場に留まるのではなく、これさえも神が作り出したものだ、このような状況は神が作ったのではないかと思い、自分の心の中でそれに対して抵抗していたのです。赦しとは、「私はあなたを赦しますよ」といった簡単なひとことでは出来ないと思います。そのようにすんなりと言えるとしたら、それは真実ではないでしょう。心の中で相手に憐れみや心の痛みを感じることだけでも、赦しではないかと思います。また、そういったことが私たちの人生のありのままの姿だと思います。ですから、今おっしゃられたシーンでは、観客の皆さんがこれは明らかに赦しだと思わなくても、シネと犯人の娘の間に流れていた微妙な感情が大切だと感じ取ってくれるだけで良いと思いました。

-----20年前に書かれた原作を映画化された経緯と、脚本を書かれるのにどれくらいの時間がかかりましたか?

 原作の小説を読んだのは1980年代の半ばでした。その頃はまだ映画の仕事もやっていないばかりか、将来映画の仕事に関わると想像すらしていなかったので、普通に読んだ後、忘れていました。心の中には入り込んでいたかもしれませんが、しばらく忘れていたのです。ところが、『オアシス』という映画を撮り終わった後、気がつくと忘れていたはずのその作品が語りかけてきました。本当に自分自身でも覚えていなかったのですが、おそらく、以前に読んだ時にこの小説が心の中に入り込み、心の中で芽を出して育ってきたのだとお思います。そうして構想を練り始めたのですが、ちょうど構想中に公職に連れて行かれてしまったので、作業はしばらく中断してしまいました。その後、2004年の末あたりから構想を再開し、シナリオを書き始めたのが05年の後半、06年の春に書き終えました。執筆には6ヵ月ぐらいかかりましたが、実際に書いていたのは1ヵ月間ぐらいだったと思います。私は、自ら物語を引っ張っていくというよりも、頭の中で自ら物語が出来上がるのを待つタイプです。

-----なぜ、公職に就かれたのですか?

 実は、公職には就きたくて就いたわけではなくて、いろいろ複雑な事情があるのですが、仕方なく大臣に就任することになりました。最初は嫌で逃げ回っていたぐらいですが、“人は生きていく中で嫌なこともしないといけない”“時には飲みたくない苦い杯も飲まないといけない”と現実を受け入れることにし、最後には観念し役職に就きました。実は、韓国では文化芸術面でやるべきことは非常に多いのです。特に、国家的な価値として経済発展が優先されてきたので、全ての政策でそちらのほうに力が入れられてきました。ですから、文化的な観点から、文学・文化・芸術に関わっている人が何らかの方向性を見つけて、文化芸術的な発展を求めて政策を立てたことがそれまではなかったのです。そういったことも背負って、自分が担当することになりました。
これは自らが招いた結果ではあるのですが、できるだけ長官出身だという肩書きは忘れたいですね。この肩書きはあまり好きではないので、皆さんに早く忘れて欲しい。特に、韓国の観客の皆さんには忘れて欲しいとお思います。観客の立場からすれば、“どうせ長官出身の映画なんて観たくない”と思うでしょうから、出来るだけ早く皆さんに忘れて欲しいと思っています。

-----チョン・ドヨンさんの演じたシネという役は、彼女自身と似ていましたか?

 チョン・ドヨンさんを、女優としてではなく人間としてみると、すごく強い人間に見えると思います。何にでも自信満々で、とにかく情熱的にいろいろなことに取り組む、そういう人に見えると思いますが、私からすると、実は内面はとても弱く、誰よりも脆くて傷つきやすい、そういう内面を隠し持っているような気がします。その点は、今回のヒロインのシネと似ていると思いました。チョン・ドヨンさんにこのことを話したことがあるのですが、彼女は本当に驚いて、そんなはずはないといった顔をしていました。本当は当たっているとしても、それを否定したいような顔でしたが、そういった点までシネと似ているなと思いました。撮影中、彼女はシネとして生きてきたわけで、シネとしていろいろなことを感情的に受け入れることは本当に辛かったと思います。そのことは現場で見ていても痛切に感じましたが、だからといって私から助けを出すこともできませんでした。映画の中のシネも同じで、周囲の誰からも助けを得ることができず、神さえも救いにならなかったのです。本当に辛かったと思いますし、本当に私を恨んでいた部分もあったようですが、恨まれても仕方がないと思います。映画の中でも、シネが神を恨む部分がありますが、そのように人間は周囲の人を恨むしかない状況になることもあるので、一番近い立場にいた監督である私が恨まれても仕方がないかなと思いました。本当に、チョン・ドヨンさんは撮影期間中シネに成りきって、生きてくれたと思います。

-----チョン・ドヨンさんとソン・ガンホさんを起用した理由は?

 私は俳優に会う時、その人の演技力や演技スタイルは全く問いません。会う時には、俳優としてではなく人間として会い、人間としてどのような魅力があるのかを感じるようにしています。ですから、会う時には、その人に惹かれるかどうかが一番重要な点になってきます。その人にあった時に人間として惹かれるものがあれば、きっと観客にもそれが伝わると思います。チョン・ドヨンさんの場合には、以前に出演した作品の演技は全く考慮せず、一個人として、人間としての彼女を見た時に、この人はまさにシネだと思ったので、お願いしました。
ソン・ガンホさんのキャスティングの経緯にはちょっと違う理由がありました。この映画の舞台となったミリャン(密陽)という街は慶尚南道という行政区域にあるので、どうしてもその地方の方言が必要でした。この地方特有のカラーを出すためにも言葉のニュアンスが必要だったので、慶尚南道出身の俳優さんが必要だったのです。今回、ソン・ガンホさんが演じたジョンチャンという人物は、もしかしたらシネよりも難しい役だったかもしれません。シネはとにかく前面に出て映画をひっぱっていく役でしたが、ジョンチャンは常にシネの2、3歩後ろにいて、時にはフォーカスが合っていないときもありましたね。でも、映画全体の内容を見ると、この二人のバランスがきちっと取れていないといけなかったので、目に見えない存在感とでも言うのでしょうか、そういったものが必要とされていました。有名な俳優の中では選択肢がなく、全ての条件を満たしているのはソン・ガンホさんしかいませんでした。考えてみれば、シネがまさにチョン・ドヨンさんであったように、ソン・ガンホさんもジョンチャンそのものだったと思います。

-----チョン・ドヨンさんが演じたシネの演出やキャラクター設定について、苦労した点は?

 チョン・ドヨンさんに限りませんが、私が俳優さんに望むのは、演技をしないことです。演技をしないでその人に成りきることをお願いしています。その人物になることを受け入れて、その人物の心を感じ取って欲しいということをお願いしています。その俳優さんが与えられたキャラクターになりきったと思ったら、それ以上、どんな些細なことも注文しません。なぜかと言えば、その人物になったとしたら、その人物の感情どおりに動いて言葉を発しているわけですから、こちらが評価することはできないからです。でも、私がそういうことを言うと、俳優さんは本当に辛くなり、逆に苦労をかけてしまいます。こちらとしてはこういう考えを持っていますから、「今のはすごく上手だった」とも言わないし、「今のは下手だった」とも言うことはありません。俳優さんにとっては説明不足かもしれませんが、私としては、こういう状況の時にはこういう感情だからとか、こういう気持ちだからとかは一切説明せず、とにかく、俳優さんが自らが感じてくれることを願っています。こちらから何だかの意味を考えて説明してしまうと、外から与えられたものになってしまうので、そういう説明をするのはタブーだと思っているぐらいです。自分の人生にはこんな意味があるから、ここはこのように行動しようと思う人はいないと思います。それと同じことで、出来るだけ説明をすることを止めますし、説明することは演技の邪魔になると考えています。本当に俳優さんたちはとても苦労させてしまい、苦労していることも判っているのですが、俳優さんと話し合う時でも演出に関わることや役柄に関わる話はほとんどしません。だから、撮影が終わってから、監督は必要なことを何もやってくれなかったという人がいるかもしれません。そうだとしても、私は自然に俳優さんが役柄に成りきる、まるで水が何かにしみこむように自然にその人になりきって欲しいと思っています。だから、私のやり方は具体的にこうしろああしろというディレクションではなく、その人物になるためであれば、直接関係のない話でもしたほうが良いのではないか、逆にその方が効果的ではないかと思っています。

-----では、俳優にとってその役柄を理解する手段は脚本しかないというお考えですか?

 もちろん、シナリオもそのひとつだと思いますし、逆に全然違う話をすることで、悟ってもらおうとすることがあります。例えば、「僕の友達にこんな人がいるんだけどね」と言って、別の話題を持ち出し、間接的に話をすることはありますね。実際の登場人物はこういう性格の人だとか、この登場人物だったらこんな行動をとるだろうといった分析ではなく、全く違う話にすり替えお話をしたり、他にもいろいろな方法があると思っています。
私が常に警戒していることがあるのですが、それは監督があれこれ要求をした場合、俳優さんが「あっ、監督はこういうことを要求しているんだ」と思ったとしますね。そう思ってしまったら、その瞬間から俳優さんはそれに合わせようとしてしまうので、自発的なものが生まれなくなると思います。俳優さんには、出来るだけ自分の中から湧いてくる動機に基づいて動いて欲しい、自発的に動いて欲しいのですが、こちらから注文してしまうと、逆にそれが出来なくなってしまうと思います。

-----シネのひとり息子ジュン役のソン・ジョンヨプさんも素晴らしい演技でしたが、子役に対しても大人の俳優と同じような姿勢で演出を行うのですか?

 何だか、演技や演出の授業のような感じですね(笑)。私は、演技における最高の境地は単純になることだと思います。まるで犬のように単純になることが一番の高みだと思います。犬は絶対に演技をしませんよね? それが一番だと思います。でも、立派な俳優さんはずっと演技をすることに慣れていたので、例えば、30年、40年演技をしている方は、単純になって下さいと言われてもなかなか出来なくて、“自分が単純になることがすごく恐い”とおっしゃっていたベテランの方もいらっしゃいました。子役やご老人は最初から良い意味で単純なところがあり、もともとあまり演技をしない方たちなので、自然に生きているままの姿で、映画の中で動いてもらっています。逆に映画のほうで、最初から子役やご老人の方が持っていた単純な部分をお借りして使わせてもらっている感じです。今回のジュン役の男の子も、ほとんど演技はしていないと言っていいですね。単純に子供らしく、普段の姿を映画の中に切り取って見せたことになります。本当に訓練されていろいろと経験を積んだほうほど、単純になることが難しいのです。既に経験を積み上げていますし、今まで何度も出演した作品を分析する目を持っているので、それらが蓄積されてしまうと、単純になる時には障害になることがあると思います。そういうところから解き放たれて単純になることは本当に難しいことですし、一度そういったものを積み上げたのに、元に戻すことは矛盾を抱えているかもしれません。それを要求するのは大変なことですし、やる側も大変だと思います。

-----ソン・ガンホさんが演じたジョンチャンは、いかにも韓国男性に多くいそうなタイプだと思いました。どうしてシネを好きになったのかよく判りませんでしたが、ラスト・シーンではシネが少しジョンチャンに対して心を開いたような気がしました。このようなジョンチャンのキャラクター設定の理由について教えて下さい。

 まずこの映画を見た観客に受け入れて欲しいのは、もし私たちが生きているこの世の中に希望や救い、人生の意味があるとしたら、それは自分の近くにあるということを感じ取って欲しいということです。今、私たちが両足で立っているこの場所にしか希望や救いや生きる意味はないということを、考えて欲しいと思いました。私たちがいるのが美しくて素敵な場所ではなく、みすぼらしくて取るに足らない場所に見えるかもしれませんが、自分が今ここにいるからこの場所にしか人生の意味や価値はないのだということを伝えたいと思い、ジョンチャンのキャラクターを作りました。
ジョンチャンは本当に周囲にいそうな人物ですし、全くあか抜けていないですし、浅はかだったり、ちょっと世俗的な俗っぽい一面も持っていますが、このことはある意味で現実だと思います。もし、現実というものを人格化して人に例えて表現するとすれば、まさにジョンチャンのような存在になると思い、あのキャラクターを作りました。本当に韓国にはよくいそうな、そして実際によくいるキャラクターです。特に韓国の地方都市に行くと、ジョンチャンみたいな人がよくいます。彼は結構年齢がいっているのにまだ結婚をしていない男性です。先ほど、なぜシネに惹かれたのかとおっしゃっていましたが、まず、シネがソウルから来たことで彼は惹かれてしまいます。しかも、バツイチなのでちょっと隙があるのでないかと思っています。ですから、どこにでもいそうなジョンチャンみたいな人だったら、シネのような女性がいたら当然好きになるのではないかと思います。

-----文化担当大臣として韓国映画界をご覧になって、これから韓国映画界が進むべき方向性と、その中でのご自身の役割をどのようにお考えになりましたか?

 今の韓国映画界は、特に産業面で危機的な状況にあると思います。いろいろな人がその原因を突き止めようとし、原因を突き止めた上で、これからどうやって対処したらいいのかを盛んに議論しているところです。おそらく、内部にも外部にもいろいろな原因を探すことができるでしょうが、本当の危機は相違性やチャレンジ精神の欠如だと思います。韓国映画界はこれまで何回も危機を乗り越えてきましたが、今申し上げたことはまさに危機の中の危機だと思います。他のことなら克服できると思いますが、相違性やチャレンジ精神の欠如はなかなか克服できないからです。そして、私自身の役割についても自問自答しないといけないと思っています。果たして、自分には相違的な考えがあるのか? 何かを作り出そうとすることで自分自身闘っているのか? 自分は適当に楽をして安住しようとしているのではないか? と自分自身に問いかける必要があると思いますし、誰もが自問自答する必要があると思います。

-----ご自身が影響を受けた映画作家はいますか?

 今のご質問に答えるのは大変難しく、ひとりの監督さんを上げることはなかなか出来ません。本棚にたくさん本が並んでいる中で、“どの本が好きですか? 1冊だけ教えて下さい”というのと同じで、なかなか難しいと思います。影響といっても、良い映画から良い影響を受けることもありますし、良くない映画からもいろいろな影響を受けていると思います。今の私を作ったのは数え切れないほど様々な映画だと思いますが、映画以外でも、文学や演劇や音楽、全てからいろいろな影響を受け、現在に至っていると思います。それでもあえて、個人的に影響を受けた尊敬できる監督さんを上げるとすれば、ジョン・カサヴェテス監督です。ジョン・カサヴェテス監督は、現実という世界を見事に映画に切り取る精神を持っている方で、とても天才的なところがあった方だと思います。イングマール・ベルイマン監督も尊敬している監督のひとりで、映画という媒体を他の媒体と違った形で見せてくれた方だと思います。例えば、人の生き方についての豊富な解釈、様々な人生の解釈を見せて下さった、とても希有な芸術家だと思います。

-----『ペパーミント・キャンディー』では時間を逆行し、『オアシス』では空想を組み込まれましたが、今回の作品では回想も空想もなく、ハードボイルド的なタッチも感じました。こういった作品の構成面は、かなり緻密に考えられるのですか?

 『オアシス』でのファンタジーのシーンは、他の映画のファンタジー・シーンとは違っていたと思います。ファンタジーとは何だろう? と、もう一度原点に立ち返って考えてもらう機会を提供したいと思い、あのような手法でファンタジー・シーンを作りました。映画を撮る時に、映画という媒体には、映画の中だけで描かれているイメージと、私たちが生きている現実の間に距離を生じさせていると思います。出来れば、その両者間の距離を縮めたいと思いながらいつも映画を撮っていますが、今回の作品ではその点が本当に重要でした。先ほど、人生の価値や希望をどこに見い出したらいいかというお話がありましたが、その答えはやはり今生きている現実の中で探すしかないという答えを持っています。だからこそ、映画の中で現実をどう描くかという点はすごく大事なことでした。映画の中だけで描かれている現実ではなく、今私たちがいるこの現実をどうやってそのまま映し出したらいいのか? どう見せたらいいのか? ということがとても重要でした。とにかく、撮影中も、構想を練っている時も、その点をすごく大切に考えていました。まさに、この映画は現実をどのように切り取ったらいいのか? という点が鍵になってくる作品で、それこそがこの映画のスタートであり終わりだという気持ちで撮っていました。

-----日本では、この映画をどういった人たちに観て欲しいですか?

 最近作られた映画には、観客を限定した作品が多いと思います。例えば、作家映画や芸術映画、映画祭で観られるような映画は、作り手が観客を限定し、理解できる人だけが理解できるようになっている気がします。その理解できる枠もだんだん小さくなっているようで、内輪の分かり合える人だけが意思の疎通を図っているような気がしてなりません。映画を全体的に見ると、両極化しているような気がします。今言ったようなごく一部の限られた人たちだけが理解できる映画と、もうひとつは娯楽として消費されてしまう映画、そのふたつに分かれてしまったような気がしてなりません。私は、映画というのはどんな形であれ、観客と意思の疎通を図る、きちっと観客と向き合うものだと思います。特定の観客を対象にするのではなく、どんな観客とも出合って欲しいと思っています。もしかしたら、観た時にすこし窮屈な思いをしたり、違和感を感じる映画であっても、そういう風に思うことが心の通い合いのスタートですから、多少関わりづらい印象があっても、全ての人に映画館に足を運んで観て欲しいと思っています。

ファクトリー・ティータイム

国務大臣の要職から解放され再びメガホンを握った本作で、主演のチョン・ドヨンにカンヌ国際映画祭の主演女優賞をもたらしたイ・チャンドン監督。その発言の端々からは、クリエーターとしての知性と自信、そして韓国映画界の現状への対抗心が感じられた。以前の作品から判りづらいのではと思っているとしたら全くの誤解、2時間半近くの大作ながら名優2人が一気に見せてくれる。まさに映画ならではの感動が味わえる傑作だ。
(文・写真:Kei Hirai)


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