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2008-01-22 更新
アドルフ・ブルガー
配給:クロックワークス
シャンテシネ、京成ローザにて公開中、ほか全国順次ロードショー
(C)2006 Aichholzer Film & magnolia Filmproduktion Alle Rechte vorbehalten
アドルフ・ブルガー
1917年8月12日、スロヴァキア・ケジュマロク郡ヴェリュカーロムニツァ生まれ。
1921年に父を亡くしたのをきっかけに、一家でポップラートに移り住み、ここで印刷工として職業訓練を受け、1937年、職人試験に合格。その後兵役につき、山岳歩兵第三連隊下士官学校へ入学する。1941年スロヴァキアのユダヤ人法の施行により、軍隊を除隊させられると、レヴォチャの強制労働収容所に半年間収容された。出所後はブラチスラヴァへ移り、印刷工として働く。この時に共産党の活動に参加。戸籍謄本などの書類偽造を行っていた。1942年8月11日、秘密警察に逮捕され、妻とともにアウシュヴィッツ強制収容所に送られる。1943年にはビルケナウに移され、1944年4月12日にザクセンハウゼン強制収容所内の厳重に隔離された18、19ブロックにある贋造工場に送られた。ここでユーゴスラビア札の贋造から、ポンド札、そしてドル贋造に従事させられる。終戦直前は秘密保持のため、ザクセンハウゼンからマウトハウゼン強制収容所移動、そして1945年5月、最終的に送られたエーベンゼー強制収容所でアメリカ軍により解放された。5月20日、プラハに戻り、そこからポップラートの自宅へ戻るが、すでに母はラーベンスブリュックで、義父はザクセンハウゼンで処刑されていた。
1988年からドイツの学生たちにこの事実を伝える活動をはじめ、2004年には人生の記憶として「ヒトラーの贋札 悪魔の工房」(朝日新聞社刊)を執筆した。
現在はプラハ在住。
第二次世界大戦中のドイツ、ザクセンハウゼン強制収容所で、極秘裏に贋札作りに従事させられていたユダヤ人たちがいた――。第三帝国下で史上最大の紙幣贋造をもくろんだ「ベルンハルト作戦」のため、各地の収容所から集められたユダヤ人印刷技師の一人であったアドルフ・ブルガーの著書「ヒトラーの贋札 悪魔の工房」(朝日新聞社刊)を基に、その事実に迫った『ヒトラーの贋札』の公開を前にして、90歳になる同氏が来日。オーストリア大使館で開かれた記者会見で、その想像を絶する体験を1時間にわたって語った。
皆さんのほうからご質問が来ると思っていたのですが……(笑)。
ご出席の皆さん、私はアドルフ・ブルガーと申します。私は1917年にスロバキアで生まれ、14歳から印刷の仕事を習い始めました。その印刷の仕事をしたことが私のその後の人生に大きな意味を与えたのです。
スロバキアにおける私の人生はヒトラーが政権を奪取して以降、大きな変化を見ることになります。当時スロバキアは、チェコ・スロバキアという国家ではありましたが、スロバキアのほうについて言うと、ファシズムのカトリック政党が力を持っていたため、ヒトラーと交渉をし、スロバキアに手を出さない代わりにベーメン・メーレン(註:1939年3月15日に設置されたボヘミアとモラビアのチェコ人保護領。現チェコ共和国)を侵略することを認め、軍隊もナチスに貸し出すと約束しました。その結果、ナチスはスロバキアには手をつけませんでしたが、ベーメン・メーレンを征服しました。また、スロバキアは軍を出すだけでなく、ナチスの作った法律を全て受け入れるとも約束してしまったのです。そうした事態に対し、フランスやイギリスも介入の余地は無く、ナチスは徐々に勢力を拡げていったわけです。例えば、ナチスは国境の地域は手をつけないという約束がスロバキアとあった場合、逆にそれを利用し、そこから各国に侵攻したのです。スロバキアはナチスに軍隊を自由に使わせるという約束をしてしまいましたので、結果的には、ポーランドやその他の国にナチスが侵攻することに、スロバキアの兵士が手を貸すという事態になってしまいました。
ただ、ここで一つ申し上げておかなければならないのは、ナチスによる人種差別政策のニュルンベルク法は例外規定を設けてありまして、1938年以前にカトリックとして洗礼を受けた者についてはアーリア人と見なされました。この規定に合致していれば、ユダヤ人であることを示す印はつける必要がなかったのです。私自身、22歳の時にブラチスラヴァ(註:1939~1945年、および1993年以降、スロバキアの首都)にある本の印刷工場で働いていましたが、1938年以前にカトリックの洗礼を受けていたので、ユダヤ人であっても印もつけずに済み、普通に働くことができていました。そしてある日、3人の共産主義の地下活動家がやってきて、1938年以前のカトリック洗礼証明書を偽造してくれれば、ユダヤの人々が助かるので印刷してくれと私に言いました。私は当時まだ若く、地下活動とはどういったものかもよく分かりませんでしたが、人を救えると言われたので、3年間ほど洗礼証明書を偽造し続けました。そして、ついにゲシュタポに捕まることになるのです。
その日のことを今でも忘れられません。1942年8月11日のことでした。ちょうど私が25歳を迎える誕生日の前日でしたが、ゲシュタポに捕まってしまったのです。3週間ほど取り調べを受け、裁判のような法的手続きは一切経ず、直ちに強制収容所に送られました。捕まえにきたのはスロバキアのゲシュタポでしたが、これはドイツのゲシュタポと何ら変わりません。その結果、私はまずアウシュビッツの強制収容所に送られ、次いでビルケナウに送られました。妻は22歳でクリスマスの1週間前にビルケナウで虐殺されました。そのように、収容所に送られた時から私の人生の悲劇が始まったのです。
私はアウシュビッツに6週間だけいて、その後ビルケナウに移ったわけですが、このビルケナウの収容所は大変悲惨な場所で、一つの馬小屋の中に800人ものユダヤ人が収容されており、水もなければ、衛生施設も全くありませんでした。
ところがある日、私に奇跡のようなことが起きたのです。点呼のときに私の囚人番号が呼ばれ、「明日、収容所長のヘスの所に行くように」と言われたのです。私は大変驚き、その晩は心配のあまり一睡もできないほどでした。私にこれから何が起こるのだろうと考えました。そして翌朝早く、所長の部屋に行きました。ビルケナウの施設の中では唯一、所長室や管理部が入っている建物だけが石造りでして、そこの2階にある所長の部屋に入りました。囚人はどこに行っても名乗ることを許されていなかったので、そのときも私は自分の囚人番号を言ったところ、所長の反応はそれまでとは全く違い、私の顔を見て「あなたはブルガーさんですか?」と敬語で聞いてきたのです。「さん」付けで呼ばれることはおろか、名前でさえ呼ばれることのなかった私に対して、所長はそのように呼びかけました。そして、「あなたは本の印刷工ですか?」と聞くので、私は「はい」と答えたところ、所長は「私たちはあなたのような専門の職人を必要としているので、ベルリンに行ってください。あなたは、自由にベルリンで仕事をして生きていくことができるでしょう。今後のご多幸をお祈りします」と言いました。その言葉の一つひとつを、私は全く信じることができませんでした。なぜなら、ビルケナウ強制収容所はNというコードネームで呼ばれており、これは「夜と霧(Nacht-und-Nebel-Erlass)」の略で、内部で何が行われているのか一切漏らすことなくユダヤ人を虐殺するための施設でしたから、そもそも生きて出られるだろうとは全く考えていなかったのです。その私に対して、所長は「今後のご多幸をお祈りします」と言ったんですよ? でも、まだその段階では所長の話を信じることができませんでしたが、その後、所属していた集団に戻り、いつものように労働に行こうとしたら、監督官に「おまえは、もう仕事をしなくていい。明日はベルリンに行くので、支度をしなさい」と言われ、そのとき初めて“奇跡が起きた。私はここを出るのだ”と実感できました。
私と共に、やはり印刷の職人だった囚人が6人選び出され、翌朝点呼で囚人番号と本人が間違いないかを確認されてから、私たちは一緒にビルケナウの収容所を出ました。そこを出てから、まず連れていかれたのはアウシュビッツの収容所でした。なぜかというと、ビルケナウは衛生状態が非常に悪くチフスが蔓延していたので、チフスがベルリンに持ち込まれることを恐れて、発病するかどうかを見るための待機期間ということで、まずはアウシュビッツに移送されたのです。
ここで強調しておきたいのですが、アウシュビッツはビルケナウに比べると、はるかに良い状態でした。ひどいベッドではあっても皆ベッドに寝ていましたし、ほんの少しとはいえ、1日に300gのパンがあり、僅かではあっても顔を洗えるような水がありました。しかしビルケナウは、まさしく地獄そのものだったと言えます。何十万もの人々が収容されていて、800人もの人々が小さな馬小屋に押し込められていたのです。そういう地獄の中に、私は1年半いました。そんな中で、印刷の技術を持った他のユダヤ人と共に私は外に連れ出されたのです。初めてそこで、自分は地獄から出られたのだと実感しました。
3週間アウシュビッツで隔離され、チフスに感染していなかったので、その後はベルリンに向けて出発することになりましたが、ナチスの担当者が来て、私たちを駅に連れていき「汽車が来たので乗れ」と言いました。その汽車は急行だったのですが、それも私には信じられませんでした。ユダヤ人の移送には常に家畜用の車両が使われていたからです。そんなわけで、私たちは何時間もかかってベルリンに到着しました、都会の大きな駅の喧騒、人々がざわめいていて、女性や子供がいて、兵隊たちもたくさんいるといった喧騒を、私は2~3年の間、一切目にすることはなかったわけですが、そうした状況を再び見ることができたのです。
そこで急行から普通列車に乗り換えて、45分ほどで到着したのがオラニエンブルクという小さな駅でした。この駅の名前を見て、“あの所長の話はやっぱり嘘だったんだ。ベルリンなんかじゃない。俺はまた、変な所に連れてこられてしまった”と思いました。このオラニエンブルクにある強制収容所がザクセンハウゼンだったのです。その後私は、ナチスの命令の元に1億3200万ポンドの贋札を印刷するという運命を迎えました。
かくして私たちは、ザクセンハウゼン強制収容所の18区、19区棟に収容されることになったのですが、この二つの建物は収容所内でありながら、鉄条網で厳しく囲まれ、窓という窓は内側から真っ白に塗られていて、外からは一切窺い知れないようになっていました。その建物の中でナチス最大の秘密作戦が実行に移されていたのです。働いていたのは142人のユダヤ人でした。ここにはナチスの兵士でさえ入ることは一切許されず、作業に関わっているユダヤ人とこの秘密作戦を監督する警備担当者だけが入れました。当時はチトーがユーゴスラビアの独立宣言をした後で、スイス程度の広さの領土で自国の通貨を発行していましたので、最初の3週間くらいはユーゴスラビアの紙幣を贋造していましたが、その後まもなく、私たちの主要な作業となったイギリス・ポンドの贋造に移っていきました。
まだいくらでもお話しできるのですが、この辺でおしまいにして、皆さんからたくさんご質問がおありでしょうから、できる限り全てのご質問にお答えしてゆきたいと思います。
この映画は現実を踏まえてはいても、あくまでフィクションですので、例えば、ドルの贋造をしたくないが故にサボタージュをして、仲間と殴り合いになるといったシーンも出てきますが、そういったことは全くありませんでした。そもそも皆に公言してサボタージュをする人はいないわけで(笑)、サボタージュというのは秘密裡に行われるものです。事実は全て、私の著書「ヒトラーの贋札 悪魔の工房」(註:朝日新聞社より発売中。税込2415円)の中に書いてあります。映画はあくまでフィクションだとご理解いただきたいです。
ナチスの警備担当者たちは決して馬鹿ではなく、非常に知的で、優れたエンジニアや化学の知識を持っている者たちでした。出来上がったポンド紙幣がまともな贋札になっているかチェックするために、いろいろな所から銀行業務に通じた20人のユダヤ人を集めてきて、贋札を1枚ずつ調べていました。ですから、もしも私が、ポンド紙幣についてもサボタージュをしようとしたり、変な物を作ってやろうと企んで実行していたら、その場で射殺されていたでしょう。つまり、そこでのサボタージュというのは全く不可能だったのです。
ただ、ドル紙幣の場合は少し事情が違っていました。オランダのヤコブソンという人がいて「ドルの贋造をしてしまうと、戦争を長引かせることに貢献してしまう」と主張したのです。ドルの贋造には良質のゼラチンが必要でしたが、ヤコブソンはゼラチンを意図的に悪質な物にしていたのでなかなか完成しませんでした。ただ、そのことを知っていたのはヤコブソンと私だけで、他に感づいている者がいたとすれば、警備にあたっていたナチス側の人間です。
ザクセンハウゼンでの私たちの暮らしは、大変清潔でふかふかしたベッドがあり、食事も十分に摂ることができましたし、ラジオも聴けました。ナチの高級士官ディートリッヒから、前線で何が起きているかという情報も聞くことができました。ビルケナウでは、先ほどお話ししたような劣悪な衛生状況の中、ベッドともいえないベッドに5人が並んで寝ていたのです。それに比べたら、ザクセンハウゼンは別世界でした。
しかし、この作戦のトップに立っていたベルンハルト・クリューガーも殺人者であったことには変わりないのです。病気だという理由だけで、6人もの若いユダヤ人を殺させたこともありました。ユダヤ人を病院に連れていくことは許されていませんでしたから、病気になったら殺されるしかなかったわけです。その殺人者クリューガーが、私たちに卓球台をプレゼントしたのです。「君たちの体調を万全にしておく必要があるから、卓球をして楽しんでくれ」と彼は言っていました。私自身も、ナチスの将校相手に卓球をしました。強制収容所という環境の中で、そんなことがあったなどと誰が想像できるでしょうか?
映画の中で、歌ったり踊ったりといったパーティのシーンが出てきますが、あれは事実です。ある日、私と同年輩の若いドイツ人が収容されてきました。彼はノルベルトという名前で、カウンターテナーのようにとても高い声で歌うことができました。その歌声があまりに素晴らしいので、クリューガーが「6週間に一度、この施設内でショーを催すことを許す」と言ったのです。ですから、あれは実際にあったことでした。6人のナチス将校がいつも最前列に座っていて、彼らはドイツ語しか分からないので、毎回ドイツ語のプログラムを印刷してショーをやりました。
そういった生活を送りながら、私はベッドに戻ると毎晩、自分に向かってこう言いました。“ビルケナウやザクセンハウゼンでも、他の所にいる収容者たちは全く違った生活を余儀なくされている。俺は今、休暇をもらっているだけなんだ。ただし、これは死者の休暇だ”と。そう思ったのは、この作戦に携わった人間として、生きて外に出ることは決してないと信じていたからです。外部と手紙をやり取りしたり、小包を受け取ったりということも可能でしたが、それは他の収容者たちには考えもつかないことでした。私たちにはそうした恩恵が与えられていたのです。
とはいえ、私たちの中にも、解放のたった6週間前に殺されたオーストリア人もいました。クリューガーは私たちに卓球台をプレゼントしたり、ショーを許可したり、煙草を全員に配ったりということもしましたが、結局は冷徹な殺人者以外の何者でもなかったのです。
クリューガーは偽造させたパスポートなどを持って逃亡しましたが、戦後アメリカ軍に捕まりました。ところが、アメリカ軍に捕まったドイツ兵というのは何千人もいたわけで、クリューガーは自分が重要な任務に当たっていたことなど話すはずもなく、一兵卒であるかのようにふるまったのです。しかし、追及が厳しくなってくるとまた逃亡し、今度はイギリス軍に捕まるのですが、ここでも下級の兵士であるかのように装って、逮捕者リストに名前があったにも関わらず、追及の手から免れることに成功したのです。「クリューガーはバクダッドで死んだ」という噂も流れたため、彼の罪は長い間、不問に付されていました。
いずれにせよ、クリューガーは潜伏して、時効を待っていたのです。結局、戦後約10年経って起訴され裁判にかけられて、下級審では有罪になりましたが上告し、そこで彼は「ユダヤ人たちを丁重に遇した」と主張したのです。その頃はまだ、第三帝国時代の裁判官が残っている状況で、6人を殺害したことを証明する命令書もなかったため、彼は罪を問われませんでした。私はそのときの裁判記録を持っていますし、彼がその後ハンブルグに住んでいたということも知っています。4~5年前に死にましたが、私は死亡診断書も入手しています。結局彼は、罰を受けないまま死んでいったわけです。
強制収容所の中で、私たちがいた所は完全に幽閉されていたというわけではありませんが、鉄条網に囲まれた中で生活させられていたことには違いありません。常時8人のナチスの監視者が目を光らせている中で、私が選択できる道は二つしかありませんでした。一つは命令に反して直ちに射殺されるか、もう一つは命令どおり印刷をするか、そのどちらかです。たとえ、私が抵抗して射殺されたとしても、贋札は作られてしまうのです。ですから、そういった状況の中で、良心の呵責云々といった問題が出てくる余地はありませんでした。
ただ、ポンド紙幣はいずれにせよ、大量に贋造されましたが、ナチスに渡った良質のドル紙幣はたった200枚しかありませんでした。それは、私たちが一生懸命サボタージュをした結果だったのです。ただ、そういう形での私たちの抵抗も、「6週間以内に完成しなければ、お前たちのうち4人を朝10時に射殺する」とクリューガーが言ってくるまででした。そう告げられてしまえばもう、やらざるを得ません。みんなに鷹揚に煙草を配ったり、ショーや卓球をやらせてくれた“優しい”クリューガーも、結局そういうことを言う人間だったということです。
私たちは紙幣の贋造だけでなく、切手の偽造などもやっていました。英国の国王や王妃の顔を、例えばスターリンの顔に変えてみたり……などということもやりましたね(笑)。「ヒトラーの贋札 悪魔の工房」を書くにあたって、私は写真など約200種類もの一次資料を懸命に集めました。一次資料を集めることに時間をかけたのは、例えば、強制収容所が解放された翌日の収容者たちの姿が写された写真がありますが、いかに私が巧みに文章を書いたとしても、人間がこういう姿になり得るなどということは、今の人々には到底想像が及ばないでしょう。本の宣伝をするわけではありませんが、1ページ1ページに、私が身を持って生き抜いてきた日々の経験が記されています。ですから、ぜひ読んでいただきたいのです。
若い人たちに伝えたいことですが、私はドイツ国内ですでに8万5000人を超える16歳以上の若者の前で講演を行ってきました。毎回必ず3時間かけ、1時間はアウシュビッツのこと、1時間はビルケナウ、1時間はザクセンハウゼンのことについて話をした上で、こう訴えています。「こういう歴史があったからといって、あなたたちは若いドイツ人として、罪悪感を抱く必要は全くありません。しかし、もしもネオナチに参加するようなことがあった場合には、あなたたちの行く末も、当時のナチスや今のアルカイダと同じように、単なる殺人者になっていく道を辿るしかないのです」と。
90歳という高齢にも関わらず来日、約1時間にわたって力のこもった声で語り続けたブルガー氏。もはや当時の生き証人は少なくなってきた今、おそらくは思い出すことさえ深い苦しみを伴わずにはいられないはずの体験を後世に語り継ぐためには、いくら語っても語り尽くせないという鬼気迫るような想いが伝わってきて、その言葉の重みと厳しさを胸に刻みつけた貴重な1時間だった。
(文・写真:Maori Matsuura)
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