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2007-12-28 更新
ピーター・グリーナウェイ監督
配給:東京テアトル/ムービーアイ
2008年1月12日(土)より、新宿テアトルタイムズスクエアほか全国順次ロードショー!
(C)Nightwatching B.V.2007
常にユニークな発想と手法で映画を作り続けている鬼才ピーター・グリーナウェイ監督。美術にも造詣が深く、さまざまな活動を行っている監督が、美術史に燦然と輝く巨星、17世紀のオランダの画家レンブラントの名作「夜警」の謎に大胆な解釈で迫った『レンブラントの夜警』が公開される。来日を果たした監督が記者会見に出席し、レンブラントという偉大な画家が生まれた歴史的・社会的背景から、新たなアート・メディアへの期待に至るまで、大いに弁舌をふるった。
さて、どのように始めようか。私はどうやら今も映画作家ということらしい(笑)。ただ、この10年はいろいろなことがあった。新しいメディアへの興味が増してきて、映画に対する幻滅感もますます増している。私のメッセージは変わっていない。映画は脳死状態にあると信じている。今も私は、いわゆる第二のグーテンベルク革命から生まれる製品の可能性、つまり、全く新たな形態の視覚リテラシー(視覚によって物事を認識する能力)の可能性に期待しているんだ。ただ、新たなメディアはまだ若すぎるので、全てをそこに集約するべき時期には来ていないとも思っている。
私は、映画についてこのように考えているんだ。映画は1895年にリュミエール兄弟によって創造されたが、それから30年経ってようやく、本当の傑作が生まれたと思う。エイゼンシュテインの『ストライキ』がそうだ。映画というメディアが後退し始めたのは、1983年9月31日からだったと信じている。これは、テレビのチャンネルを自在に変えられるリモコンが世界中のお茶の間に届けられた日だ(笑)。その後30年近く経って、我々は未だにデジタル革命の最初の傑作を目にする栄誉には浴していないが、まだ希望はある。
私は今、新たなメディアの可能性を探っているところだ。VJとして大きな成功を収めているし、近々「セカンドライフ」の世界で初めて映画を発表する予定があるので、それも大変楽しみにしている。
そんなわけで奇妙なことだが、私が今回携えて来日した映画『レンブラントの夜警』は、かつてヨーロッパ・アート・シネマと呼ばれたものへの不可思議な太古的後退と言えるかもしれない。
ところで、今はもう誰も映画館に映画を観に行ったりしないのではないかね? どうだろう? 皆さんはもう映画を観に行かないのでは? すなわち私は、ほとんどの人が観ないような太古的芸術形式に携わっているということになる。私自身、映画を観に行くことはもうない(笑)。ものすごく退屈だし、観に行く必然性を感じないからね。そんな私がどうして、映画を観に行くことを皆さんに期待できるだろう(笑)?
ご存じだと思うが、ルネッサンス以来、つまり、キリスト歴1300年以来、西ヨーロッパには大勢の画家がいた。そして多くの画家たちはもちろん、よく旅をした。特にフランス、イタリア、そして私の第二の故郷となったオランダでは絵画が隆盛を誇った。ただ、何千といた画家たちの中でも最も成功したのが、私はレンブラントだと思っている。それにはいくつかの理由があり、しかもこの2007年と深く関わっている。だから、ご想像いただけると思うが、私はただ単に1642年にある絵を描いた一人の画家レンブラントについて語るためでなく、映画と絵画の制作には多くの関連性があることを示すために、この映画を作ったんだ。レンブラントと現在の間には400年という隔たりがあるとはいえ、2007年という現在に彼が結びついているというのはさまざまな理由がある。それについては、あなた方が私の長々とした説明に耐えられるというのであれば、喜んで話させていただこう(笑)。
あらゆることについて言えると思うが、物事には流行というものがある。驚くことに、ヨーロッパ人でさえ、1820~30年代にバイロン卿がその魅力を伝えるまで、おそらくはヨーロッパで最も素晴らしい建築物であるアテネのアクロポリスにほとんど誰も注目しなかったんだ。つまり、古代ギリシャ建築が人気を博すようになったのは、そんなに古い話ではないということになる。
画家の中には当時非常に人気がありながら、後になって完全に忘れ去られた者たちもいる。皆さんの中でサルヴァトール・ローザをご存知の方はいらっしゃるだろうか。一時期はミケランジェロよりも重要な画家だと思われていたが、今はほとんど誰も知らない。
ただ、レンブラントが現在と結びつく存在であるというのは、彼を人気のある画家にした当時の文化的環境と無縁ではないと思っている。もちろんそれは、彼に非凡な才能があったからこそだが。
何よりもまず、レンブラントは北西ヨーロッパにある全く新たな政治制度を敷いたネーデルラント連邦共和国(現:オランダ)に住んでいた。当時周辺諸国は、イギリスももちろんそうだが、ルイ14世のフランス、ドイツの領邦国家など、堅固な専制君主制を敷いていたわけで、オランダは人口800万人くらいの小さな国だったが、個人の能力が評価される共和国制を宣言することに成功したというのは驚くべきことだ。だから、レンブラントは本質的にも共和国人であったわけだ。共和国制というのは、もちろん全く不十分なものではあるにしろ、現在の我々に可能な最も完璧な政治体制であるということは、世界中の誰もが認めるのではないだろうか。少なくとも、どのような生き方をするか選択することができる。共和国人なら自動的に能力主義の社会に参与しているということになる。先代よりも劣る現君主に仕えなくてはいけないという王制が抱えるような問題とは無縁だ。つまり、本質的には民主主義者ということになる。アメリカのブッシュ大統領が民主主義を理解しているとは思えないが、民主主義は、当時の北ヨーロッパでは全く異例だった権力の共有を意味するのは確かだ。
そんなわけで、レンブラントは共和国人であり、つまり民主主義者だった。明らかに彼は、17世紀初頭にヨーロッパで始まった非常に洗練された“啓蒙の時代”が生んだ博愛主義の伝統につながる存在だと、私は考えている。博愛主義者であるということは文明を信じているということだ。ここにカトリック教徒の方がいたらあらかじめ謝っておくが、カトリックは文明に対して偏狭なところがあり、もちろんプロテスタントも偏狭な部分はあるにせよ、新しい文明を推し進めてきた。つまりレンブラントは、民主主義者であり、共和国人であり、博愛主義者だったんだ。
それから言葉の使い方を誤ってはいけないが、彼はフェミニストでもあり、反メソジストだった。つまり、女性を貶めるように醜く描くことは決してなかったんだ。醜い女性は描いたかもしれないが、それは同じことではない。女性に敬意を払うというオランダの伝統は大変素晴らしい。レンブラントとほぼ同時代人であるフェルメールも常に、女性に威厳を与える描き方をしており、男性の猥褻な視線を満足させるような対象として描写することはなく、それは実のところ、いささか例外的だったと言える。
一時期大いに流行った次の二つの言葉も気をつけて使わなくてはいけないと思うが、レンブラントはまた、非常に“ポスト・フロイド派”的でもあった。つまり、彼は初めて絵の中に、対象となっている人物の内省、心理に通じる感情を映したんだ。描かれているものには全て意味があり、人物の感情と表現されているものとの間に関連性をもたせている。そういう意味において、私はレンブラントが“ポスト・フロイド派”的であると思うわけだ。
もう一つは、それ以上に流行った言葉だが、彼は“ポスト・モダニスト”でもあったと考えている。絵にアイロニーを込めつつも、対象を裁くことはしない。情的な公平性とも言えるだろうか。
そしてさらには、今私たちがレンブラントを取り上げる最も明白な理由は、彼が極めて上手く絵を描く画家であり、モダニズムの先駆者だったからだ。これは有名な話だが、ヴァン・ゴッホは「夜警」の前に座って、サンドイッチを手にしたまま、3~4日間くらい見続けていたそうだ。とにかくレンブラントは、後期印象派の画家たち全員に途轍もなく影響を与えたということは言うまでもない。
あともう一つ、とても大切なことがある。つまり、レンブラントはジャクソン・ポロックではなかったということだ。たとえ400年の隔たりがあろうと、彼は現在の私たちも容易に理解できる絵を描いたんだ。20世紀の抽象画やじっくり眺めて考えなくてはならないような絵画とは全く違う。(通訳さんに向かって)さあ、あなたの番だ(笑)。
また、なぜ私が彼に魅了されるのか、個人的な理由も付け加えたい。つまり、私は彼のことを世界最初の映画監督の一人だと考えているんだ。なぜなら、もしも今彼が生きていたら、絶対に映画監督になっていたと思うし、しかもHDカメラで撮影する監督であったことだろう。
映画は一般的に、1895年にパリで誕生したと言われているが、もしも“映画”というものの定義を考えてみたら、それは“人工的な光を操る芸術”という言葉で表現できるだろう。あまりレンブラントの絵をご存じない方でも、彼が人工的な光を操る名手だということは耳にしたことがあるのではないかな。ほぼ彼と同時代に生きた偉大な画家たち、現在はベルギーであるフランドルのルーベンス、イタリアのカラヴァッジオ、スペインのベラスケス、そしてオランダのレンブラントという4人が人工的な光を活かした全く新しい絵画の方向性を示したと見なせるだろう。
なぜそう言えるのかというと、1580年代までは人々は太陽が沈めば眠り、太陽が昇れば起きるという、自然の光に合わせた生活を送っていたわけが、蝋燭の生産技術の発達がそれを変えることになった。それ以前は、西ヨーロッパで蝋燭が買えるのは裕福な人々、つまり、貴族や教会に限られていた。当時、人工的な明かりとしては蜜蝋を使っていたからね。1本の蝋燭を作るのに何匹の蜂を必要とするか考えてみるといい(笑)。ところが、1600年頃になって技術が進んでパラフィン蝋燭が発明され、当然ながら大量生産が可能となり安く買えるようになった。そんなわけで、ブルジョワジーや労働者階級でも上のほうに属する人々は明かりのある時間を延長させることができるようになったわけだ。もちろん、パラフィン蝋燭はあまり効率がいいとは言えなかった。臭いし、消えやすいし、すぐに燃え尽きてしまう。でも、ほとんどの家庭が買えるくらいに安いものだった。
もちろん、それは画家たちにとってもものすごく大きな変化となった。人工的な光を使って、室内や場合によっては外の風景を描くようになったわけだ。これこそ、人工的な光による視覚的な実験の始まりであり、すなわち17世紀初頭には映画的な試みが始まっていたと想像できるだろう。
私は画家として教育を受け、映画作家でもあるので、なぜレンブラントに興味をかき立てられたか、これでお分かりになったことだろう。すなわち彼は、人工的な光を使って世界を見た、ごく初期の頃の画家だったということだ。
私は画家としての教育を受けてきたが、一般的には映画監督と言われていて、履歴書を書かないといけないとしたら、その胡散臭い職業がメインとなるのだろう(笑)。とにかく私はこの映画の中で、画家と監督はすごく似ているということを説明しているはずだ。例えば最初のほうのシーンで、レンブラントは面白いことに映画監督のようにふるまっている。「枠の中に居てくれ」とか「光の中にいるように」とか「自分の姿がちゃんとカメラを通して見えるようにしてくれ」などと言っている。これはいわゆる映画用語でいうところの“フレーミング”だ。
こうした類似は随所に見られる。この映画のメインのモチーフは明らかに、“見る”“見つめる”ということだ。ここに登場するレンブラントの絵は、英語で“Nightwatching”という名前が付けられている。もちろん、この絵が与える印象からそう呼ばれるようになったわけだが、興味深いことに、レンブラント自身はそう呼ばれることになるなんて思いも寄らなかっただろう。
また、この絵は闇と光を描いたものでもある。この映画には、彼を盲目にさせようとする二つの企てが最初と最後に出てくる。最初は悪夢にすぎないが、最後は彼を盲目にして破滅させようという陰謀が絡んでくるんだ。映画を通して、台詞は常に“目”にまつわっている。“目”“見る”“見つめる”という言葉が頻繁に出てくる。それから、最後のほうでレンブラントは自分が弱視であることを告白している。実は数年前にある美術史家が、レンブラントの肖像画全てをコンピューターにかけ、対象を見つめる彼の視野を光学レンズで測定してみたところ、実際に彼の右目が弱視だったということが判明したんだ。つまり、これは必ずしも私の創作ではなく、医学的な根拠があるんだよ。
実は美術史において、多くの画家が何らかの目の障害を抱えていたと推定されている。例えば、エル・グレコをご存知だと思うが、なぜ彼の絵には長く引き伸ばされ、変形された肉体を持った人物が出てくるかというと、彼の左目が網膜色素変性症を患っていたからではないかと指摘されている。また、カラヴァッジオは赤色色盲だったからこそ、あれほど闇が鮮明に描かれているのだという説があったり、ルーベンスも白内障を患っていたので、後期の絵は焦点が合っていないという説がある。
肉体的障害に関する医学的検証をする必要は別にないが、ただ、アイデアを与えてはくれる。そんなわけで今回、私は光と闇のコントラストという概念にこだわり、目や見ることにまつわる台詞を頻出させ、監督と画家の類似性を意識しながらこの映画を作ったんだ。
私が知る限りでは、これまでレンブラントを描いた映画として有名なものは2本あったと思う。チャールズ・ロートンが素晴らしい演技を見せたアレクサンダー・コーダ監督のイギリス映画『描かれた人生』(1936)と、クラウス・マリア・ブランダウアーが主演でシャルル・マトンが監督を務めたフランスのTV映画『レンブラントへの贈り物』(99)だ。ただ、興味深いことに、両作ともレンブラントを年配の男性として登場させていた。年代をきちんと追いながら、彼がどこで何をしていたのかが分かるように良く描かれていて、まるで彼の生涯に関するドキュメンタリーを見ているかのようだった。私たちは彼がどこを歩いていたのか、彼の子供がどの教会で洗礼を受けたのか、彼の愛人や妻たちがどこに埋葬されたのか知っている。アムステルダムというのは、本当に彼を身近に感じられる町なんだ。
私は今、第二の故郷であるオランダ・アムステルダムの中心地に住んでいて、家の窓から見える国立美術館に昼夜を問わずいつでも入れるパスを持っている。だから、私は“レンブラントの町”にとても馴染みがあるんだ。
だから、偉大な画家に捧げるオマージュをこめた映画を作るのであれば、彼の人生を正確に描くべきだと思った。1642年に「夜警」を描いたときには彼はまだ36歳だったということが分かっている。そして実は、マーティン・フリーマンも今36歳なので、その点でも彼を起用したのは理に適っているだろう。完璧な一致だ。また、画家というと、才能にあふれ信じられないほど知的な存在というイメージを与えたいかもしれないが、彼を超越神のように描きたくなる誘惑を克服すべきだ。私は彼をそういう存在に描く気持ちはさらさらなかった。
また、オランダ人というのはものすごくプラグマティック(実用主義)で、神秘性とは無縁で、極めて合理的な人たちだ。レンブラントも非凡な才能はあったにせよ、基本的にはどこにでもいる男だった。誰もが抱えるような問題に悩まされ、例えば、“女房と寝ている男は誰だ?”“子供は百日咳に罹っているんじゃないだろうか?”“乾物屋への支払いをどうする?”だとか、そんな心配をしている。要するに、女房・子供・金をめぐる不安は、世界中の誰もが味わっていることだ。
つまり、私たちはレンブラントをごく普通の男、典型的なオランダ人として描きたかったんだ。汚らしい下着を着て、汚い言葉を遣い、怒りっぽく、セックスが大好きで、大酒飲みで気まぐれで……といった、大した取り得もないような普通の男として。
マーティン・フリーマンはこれまで、まさしくそんな男を演じてきた俳優だ。典型的なロンドンっ子で、この20年でいろいろな作品に出てキャリアを積んできたが、彼は英国人にとって絵に描いたような“likely lad”(註:1960年代に英国で人気のあったTVシリーズ「Likely Lads」から来た言葉か。イングランド北東部出身のごく普通の2人独身男性が、パブで気勢をあげながら将来についてバラ色の夢を描くというストーリー)なんだ。つまりマーティン・フリーマンは、辛辣にずけずけとものを言い、インテリではないが世事には通じているという雰囲気をもっていて、そういう役を多く演じてきたので、彼がこの役にはピッタリだと思ったんだ。
私は、映画で語るべきことは二つしかないと思っている。それはセックスと死で、これまでその二つのことだけを語ってきて世界中の観客をウンザリさせてきたことだろう(笑)。セックスと死は、最初と最後、エロスとタナトスを象徴するものであり、基本的には人間にとって避けられないものだ。だからこそ、私たちはそれらに魅了される。映画の120年の歴史において、セックスと死は繰り返し題材にされてきた。映画俳優としてキャリアを積みたいと思ったら、遅かれ早かれ、映画の中でセックスをしたり死ぬことは避けられない。申し訳ないが、皆さんがどのように思おうとも、映画というのはそういうものなんだ。
そんなわけで、私はこれからもセックスと死について語り続けるつもりだ。次回作は、ブラジルが舞台のポルノになる予定なんだ(笑)。
私はアーティストとして、本当に恵まれてきたと自覚している。年齢を考えると、未来は過去より短いかもしれないが、やりたいことはたくさんあって、2012年までに6本くらいの映画を作る予定でいるし、キュレーターとして展覧会も企画中で、また、「セカンドライフ」用の映画も作る予定だし、ほぼ毎週末、世界のどこかのマルチ・スクリーンにVJとして映っている。というわけで、新しい技術を使ったマルチメディアを駆使する機会がいくらでもある。それこそがまさしく、今私がエネルギーを注ぎたいことなんだ。
「手短に」? 驚いたね。日本人がファストフード好きな国民とは思わなかったよ(笑)。
常々言っていることだが、正直申し上げて、現在の映画の状況に対して私は悲観的だ。映画の黄金時代はいつ頃だったのかと考えると、暗闇の中で心揺さぶられながらみんなで映画を観ていた頃だろう。でも今は、私のこのポケットに入っていて、おそらくは皆さんもお持ちの物のほうが、ずっと重要なスクリーンになってきている。つまり、携帯電話だ。これこそが、映画と呼ばれるオーディオ・ビジュアル(AV、視聴覚メディア)を使ってコミュニケーションをいかに行うべきかという概念の未来と言えるだろう。
特にラップトップ世代の人たちは今、父親や祖父が求めていたものとは違ったもの、つまり、インタラクティブ性を求めている。すなわち、選択できることを求めているんだ。そして今やアートの世界は概して、マルチメディアに大きな関心を寄せている。映画はインタラクティブでもマルチメディアでもない。だから我々は、AVに対する人々の新たな欲求に応えるため、他の道を探らなくてはいけない。例えばヨーロッパでは、文明は絶えず技術革新を推し進めることで進化していった。古代ギリシャ、ローマにしてもそうだし、中世の教会における儀式も新しいものに取って代わられていった。
そういう意味では、ヨーロッパにおいて、映画に取って代わられる前に最も成功していたAVはオペラだと思う。オペラの時代が400年続き、その後に映画が来たが、そろそろ興味をかき立てるような他のAVが現れてもいいのではないかと思っているし、それが求められている。だから、あえて言わせていただけるなら、もう映画のことは忘れよう(笑)。映画は古臭く時代遅れのメディアだ。先に進もう。スクリーンというものは存続するだろうが、それは映画ではない。それはもっと、個人の選択の自由と結びついたものだ。私は世界中で講演をしているが、ほとんどの場合、こう言っている。
“映画は死んだ。映画よ、永遠なれ!”
(通訳さんに「映画のプロモーションをしないのですか?」と聞かれ)まあ、ご覧になっているとおり、私は微笑みを絶やさないでいるね? 実に英国人的だ(笑)。
私の映画は、劇場で公開されるよりテレビで放映されるほうが多く、世界のどこかで毎晩必ず、“ピーター・グリーナウェイ特集”が放映されているくらい、多くの方々に見ていただいている。だから、皆さんが何に興味を持ってくださっているのかは分からないが、少なくとも私がやりたいことに興味はもっていただけている気はしている。ただ、スピルバーグ映画が好きな観客の好みに合うように映画を作ることは、絶対にできない人間であるのはお分かりだろう。
この映画のプロモーションで最近、世界各地をまわっているが、明らかに映画人口は減っているし、映画への興味は確実に失われつつあると実感している。もはやこの状況は隠しようがない。映画は死に絶えつつある芸術媒体だ。だからと言って、涙を流すことはない。次に起こることは、映画よりもはるかにエキサイティングであることは間違いないのだから。
約1時間、語りに語ったグリーナウェイ監督。大学の名物教授の講義を聴いているかのような気分だった。敬愛する監督なので、何としても質問したいと思い、それがかなえられたのもうれしかった。
それにしても、これは一応、映画のプロモーション会見だったわけで、にもかかわらず、「映画は死んだ」と高らかに謳い上げた監督。さすがピーター・グリーナウェイ、おみそれしました……。
(文・写真:Maori Matsuura)