インタビュー・記者会見等、映画の“いま”をリポート!

Cinema Factory

Cinema Flash





広告募集中

このサイトをご覧になるには、Windows Media Playerが必要です。
Windows Madia Player ダウンロード
Windows Media Playerをダウンロードする

記者会見

トップページ > 記者会見 > 『ここに幸あり』来日記念合同プレス・ミーティング

来日記念合同プレス・ミーティング

2007-11-24 更新

オタール・イオセリアーニ監督

ここに幸あり

配給:ビターズ・エンド
12月1日(土)より恵比寿ガーデンシネマにてロードショー、全国順次公開
(C)2007 MONKEY TOWN PRODUCTIONS

 仕事、肩書き、妻、家すべてを失っても、共に歌い音楽を奏でる友達はたくさんいるし、酒は美味く、女たちは優しく、秋は美しい。——自由気ままに、無為に生きることの幸せを軽やかにうたいあげた『ここに幸あり』。グルジア出身でフランスで活躍する名匠オタール・イオセリアーニ監督が来日。ほろ酔い加減でふらりと現れた合同プレス・ミーティングでは、自身の映画を体現する自由で洒脱な雰囲気で気ままに語り、聴く者を魅了した。

-----まず、一言お願いいたします。

 一つだけ、大切なことを申し上げたいと思う。今私が来ているこの国・日本は、一方では古い文化を持っているが、他方では資本主義によってバラバラに引き裂かれているということも強く感じている。今回持ってきた映画は、私の10作目の作品となるものだ。この中で扱っていることは権力との関係だが、結局のところどのような映画を作ろうとも、私はいつも同じことをしている。すなわち私は、この地上の不幸な社会に生きる人間存在の分析を絶えず行っているんだ。長々とお話しすることをしたくない。皆さんのほうからしていただける質問を楽しみにしているよ。

-----ヴァンサンは幼い頃に過ごした場所に帰ることで、仲間と過ごす歓びを再発見しました。監督が一番幸せ・歓びを感じるときは?

 私は、この地上で幸福な人間に一人でもいいから会ってみたいと思う。貧しい人々は不幸だ。商売をしている人たちは絶えず不安にされている。大きな企業の経営者であっても同じように不安にさらされていて、いつも不幸だ。そして金持ちたちは絶対的に不幸だ。何故なら、金持ちや権力を持った人々は友人がなく、自分に忠実な者が一人もなく、全ての人が自分を裏切るのではないかと絶えず心配しなくてはならないからだ。このように地上に生きる人全てはとても不幸な存在だ。
 ただし例外として、私はひょっとしたら幸せかもしれない。世界の果てにある日本にやってきて、グルジア人ではない日本人である皆さん、グルジアという私の国を全く知らない皆さんが、この映画の中で私が提案している世界観を幾ばくかでも理解してくださった、と思うことができたら、私は幸せかもしれない。
 私が言いたかったことは、短い時間でしばし幸福であることは可能だが、長い間幸福であることは不可能だということだよ。
 (司会者に向かって)君、お座りなさい(笑)。君に話してもらわなくても、自分で仕切るからいいよ(笑)。

-----名優のミシェル・ピコリさんが出演されていますが、それ以外の出演者は素人の方が大部分のようですが、演出面で違いはありますでしょうか? 動物もたくさん登場しますが、動物の演出は大変ではありませんでしたか?

 動物のほうが、人間ミシェル・ピコリに演技をつけるよりは簡単だったよ(笑)。動物について言えば、例えば私は家でペットを飼うのは嫌いだ。というのは、あまりに心配になってしまうし、自分の家に囚人のように生きているものが閉じ込められているというのが嫌なんだ。特に私が嫌いなのは、犬が主人に対して忠実な眼差しをしているところだね(笑)。猫ならまだ我慢できる。独立心のある存在だから。でも、犬の中にはこちらがイライラしてしまうようなところがある。何故なら、忠実に主人を見上げるという眼差しの中に、私のことを何らかの支配者・権力者と見なしているものを感じるからだ。
 動物はもちろん、私の近い友人ではないが、独立した存在としてきちんと生きているものであるから、それに対して演技指導するのはそれほど難しいことではなかった。ミシェル・ピコリの場合は、女性の役をやってもらわなければならなかった。彼にとっても私にとっても幸運だったのは、私たちが親しい友人だということだ。また、彼は私を信頼してくれている。(通訳さんに向かって)……何故、フランス語は短いのに日本語はそんなに長くなるのかね(笑)? ……で、ミシェル・ピコリを女性に変えなければならなかったんだが、彼はこれまで女性の役を演じたことがなく、今回が初めてだった。でも彼は極めて巧みな俳優だから、私が「女性はそういう行動はしない」と説明するとすぐ理解してくれる。女性、特に淑女のことだが、私はミシェルに「淑女は誰かが挨拶に来たとしても、椅子から立ち上がる必要はない」と言った。淑女は誰かが来ても、席を譲ったりしないものだ。淑女はやって来た紳士の手にキスをしたりしない。とにかくミシェルとは、とても楽しく快活な雰囲気で、愉快に仕事をすることが出来たよ。ただ、最後でヴァンサンをめぐる女性たちがテーブルの周りに集まっているシーンがあるが、ミシェルは自分が女性を演じていることを忘れて、つい立ち上がってしまったんだ。若い娘が母親役の彼のもとにやってきてキスをしようとするところだ。そのことを指摘すると、「あ、女性を演じていたことを忘れていた」と言っていたよ(笑)。年をとった女性が、若い女の子がやって来て彼女にキスをしようとしたとき、立ち上がるというのは想像できないことだよ。どうぞ、映画でそこをご覧になっていただきたい(笑)。

 プロではない出演者の演出についてだが、我々はみんな生まれつき全員俳優なんだ。職業としてプロの俳優になる人たちは危険な存在だよ。というのは、彼らは自分自身のメソッドを作り始め、いつも同じ紋切り型の演技をするようになってしまうからね。自分自身の個性を隠すのは難しいことだ。だがプロの俳優たちは、何とかして自分の人間としての個性を消そうとする。そして結局、絶えず仮面をつけている人と同じになってしまうんだ。例えば、プロの俳優と一対一で話をしていて、そのときに非常に困難に思えるのは、その俳優が本当はどういう人間なのか理解できないことだ。つまり、その俳優の人間的な個性が完全に消されていて無くなっていたりするんだ。三船敏郎がどういう人だったか想像していただきたい。難しいと思うよ。ジャン・ギャバンがどういう人だったのか、全く理解することはできない。食事を一緒にしていたとしても、映画におけるジャン・ギャバンという役を彼は演じ続けていたからだ。
 普通であれば一つの役をうまく演じたら、それを殺してしまわなければならない。他の映画で同じことを繰り返さないために、一度演じた役は自分の中で完全に殺すべきだ。あるいは俳優に対して、「仕事を替えて、寄木細工をする職人だとか大工になったらどうだ?」と言ったほうがいいと思う。日本の能では演者が仮面をつけている。能面をつけることには理由がある。その仮面の後ろに自分を隠すことができるからだ。しかし、映画ではそういうことができない。映画に出演しても、そのままの姿で出ることしかできないからだ。男優・女優で、もはや普通に話も出来なくなってしまったような人たちを私はたくさん知っている。その人たちは、あまりにもいろいろな演技をしすぎたために、正常な生活を送ることができなくなっているんだ。ノーマルに生きていない、いつも演じ続けている。例えば、台所で一緒に話をしていても、彼らは演技を続けているんだ。
 しかし、ミシェル・ピコリは私の友人だし、しかも彼は今回、女性の役を演じた。これはいわば、仮面をつけたのと同じだ。一度でいいから想像していただきたい。私の映画に、カトリーヌ・ドヌーヴ、イザベル・ユペール、イザベル・アジャーニ、ジェラール・ドパルデュー、ダニエル・オートゥイユが出演していたとしたら、彼らは私の映画を完全に壊してしまうだろう(笑)。
 私はノーマルな人々と仕事をするほうが好きだ。私たち各々の中にアーティストの部分が隠れているものだから、少しだけ演技指導しさえすればいいんだ。しかし、それほど多く演技指導する必要はない。信じていただきたいが、(シルヴェスター・)スタローンを使って映画を作るよりは、素人の人たちと仕事をするほうがずっと気持ち良いよ。

-----監督の映画はいつも肩の力が抜けていて、とても楽しんで撮っていらっしゃる気がしますが、何気ないシーンもストーリーボードを拝見すると、カメラ位置や俳優の立ち位置などを最初からきっちりと決めてやっていらっしゃることに驚かされます。大変な面、楽しい面の両方あると思いますが、こういう映画を撮るということに、監督はどういう姿勢で臨まれているのですか?

 フランスにはルネ・クレールという監督がいた。ルネ・クレールがこんなことを書いていた。「私は自分の映画の描写をした。あとは撮影するだけだ」と。すなわち、ルネ・クレールは脚本を書き上げたとき、「自分を映画を書いたから、あとは撮影をしさえすればいい」ということを言いたかったのだと思うんだ。確かに、彼は巨匠だったから、脚本を書き上げたら映画は出来たも同じで、撮影しさえすればいいと言えたのだろうが、私は実は撮影の時間が大嫌いで、私にとって撮影は悪夢のようなものだ。映画の準備をするのは好きだし編集も大好きだが、撮影は本当に難しい。しかも長編映画であるのに、2ヵ月という短い撮影期間で映画を撮る。だからそのために、十全な準備をしておかなければいけない。そして撮影が終わると、一人で編集するんだが、そのとき私は自由で、しかも全くお金のかからない時間だから好きなんだ。

-----プレス資料のインタビューでは、「秋は失ってしまった時間を悔いる季節だ」とおっしゃっていますが、日本では“実りの秋”という言い方をします。この映画を拝見すると、失った時間を悔いる季節というよりも、人生の豊穣な時を迎えたという印象を受けました。先ほど、「幸せは一瞬のことだ」とおっしゃっていましたが、この映画を観ていると幸せな気分にさせられますが、その辺はどうお考えでしょうか?

 よろしい、秋について答えさせていただこう。まず、私はグルジアで生まれた。グルジアは葡萄が秋に収穫される国だ。葡萄を収穫すると金持ちになれる。さらに金を稼ぐためにワインを醸造して、そのワインを水で薄める(笑)。何故なら、葡萄の糖度があまりにも高いからだ。こうやってワインを水で薄めて2倍の量にして、それをロシア人に売るんだ。そしてロシア人はすでに2倍に薄められたワインを受け取り、さらに水を加える(笑)。だから、私に「秋は豊穣の季節だ」とかいうことはおっしゃらないでほしい。どういう意味なのか、私にはよく分かっているからね(笑)。
 また同様に、秋は木の葉が落ちて木々の枝が裸になる季節だ。日本の俳句によくそうしたことが書かれているね。秋の中には悲しみもある。そしてその秋の悲しみはあまりに遅くやって来た知恵、賢さにまつわるものだ。

-----監督の映画は言葉や会話があまりなくても、その本質が十分伝わってきますが、監督にとって言葉とはどのようなものですか?

 私の映画の場合、字幕を読んではいけない(笑)。スクリーンに映っているものだけを観ていただきたい。それで全てが理解できなかったとしたら、私の作品は失敗だ。一瞬たりとも字幕、特に漢字を読もうとはしないでいただきたい(笑)。読むのに難しいし、時間がかかると思う。スクリーンの中で起こっていることだけをじっと観ていただきたい。約束するが、全てお分かりになるはずだ。ドイツではこの映画が公開されるとき、字幕をつけようとしたんだが、とにかくドイツ語は複合語を作っていくので、一つの単語がものすごく長くなってしまう。とてもじゃないが、字幕が読めない部分が出てくる。そこで、ドイツでは私の作品は全て吹替え版で公開された。それは残念なことだと思う。何故ならば、フランス語を話している映画なのに、ドイツ語が聞こえるというのは少しばかり奇妙な感じがするからね。イタリア映画のドイツ語吹替えはもっとヘンだし、グルジア映画がドイツ語で吹替えられたとしたら、それはもう、絶望的だよ(笑)。
 映画は映像と音から成り立っているものだ。音はいつも聞こえているが、もし字幕を読んでいたとしたら、その時間は映像を観ていないことになる。それはとても残念なことだ。私自身、映像の編集はとても細かく行っているので、別に字幕がなくても映像を観ていたら全て理解できるようになっている。確かに、人々が話をしているシーンもあるが、その人たちが話していることは映像を観ていれば大体分かるはずだよ。字幕を読んでいる間は映像を観ていないんだということを意識して、極力字幕を読まないようにしていただきたい。字幕を読まないとその映画は分からないと思ったら、映像あっての映画なのだから、映画館を途中で出たほうがいい(笑)。あと、ジョンがエステルに話し、エステルがジョンに話し……といったカットバックが出てきて、字幕を読まなくてはいけないとしたら、その瞬間に映画館を出たほうがいい(笑)。それは映画ではない。

-----サイレント映画を作りたいというお考えはありますか?

 私はカラーの映画を作ることさえしたくなかった。だけど、カラー映画を作らざるを得なかった。何故なら、モノクロの作品はテレビが買ってくれないからね。いずれにせよ、映画の技術者たちが同時録音を発明して以来、映画はとてもおしゃべりな、台詞の多いものになってしまって、映画の全ての長所が失われてしまった。映画において言葉が支配的な地位をついてしまった。それはとても残念なことだ。すなわち、私たちの先達の映画作家たち、サイレント映画の作家たちが築き上げてきた映画の長所全てが失われたということになるからだ。しかし幸いなことに、突然そこに溝口健二が出現した。そして、『アタラント号』を作ったジャン・ヴィゴが出現をし、また全く予期せぬ形でジャック・タチが現れ、ルネ・クレールが出現した。そして、オーソン・ウェルズ、ジョン・フォード、彼らが台詞なしでも映画を理解し得るものに再び戻した。
 だから、私は言語のない映画を作る可能性はあるが、音のある映画を作り続けるだろうから、サイレントに戻るということは絶対にないだろう。カラーではない映画を撮ることもあるかもしれない。だが、絶対に自分が作らないと分かっているのは、匂いが出る映画、触れるような映画、3D映画だ。私自身は映画の言語を使って映画を作っている。匂いが出る、触れられる、3Dのような映画は、テキストの周辺で細かい作業をしているにすぎない話だ。すなわち、目をつぶって映像を観なくても内容が分かる映画を作ったとしたら、それはもはや映画ではない。目を開けて映画を観ていても、翻訳が必要な映画、それもまた映画ではない。そんな映画を観て時間を無駄にするよりは、サーカスを観に行っていただきたい(笑)。

-----もしも映画作家でなかったら、監督は何をなさっていたと思われますか?

 私は映画作家でなかったら、盗賊になりたかった(笑)。映画作家か盗賊しかない。まず、私は働くのが嫌いだ。でも、人に何かを与えるのは好きだ。映画は作り上げることで、人に何かを与えられる可能性がある。私の仕事はあまり愉快なものだとは言えないがね。私が人にあげられるものはそれしかないので、映画を作っていなかったとしたら、盗賊になるしかない。人に何かを差し上げたいという欲求は私の中では絶対的なものなので、盗賊になって富める者たちから盗み、貧しい者たちに分け与えるだろうと思う。

ファクトリー・ティータイム

会場に入ると、シャトー・アンドロンというヴィンテージの赤ワインを振舞われ、あまりいけない口の筆者もつい、たしなんでしまい、ヨーロッパから帰ってきたばかりの足で会場にやって来たという、何がなんだか分からない状態の上に、昼間っからワインが注入されてしまった頭は、すっかりイオセリアーニ・ワールド。そんな中、ずっとワインだかブランデーだかを飲み続けているとかで、ほろ酔い加減で会場にふらりとやってきたイオセリアーニ監督。作品に一貫して通じるノンシャランとした反骨の自由人的雰囲気そのものを体現している方で、何を質問されても、何となく質問からずれていくことも一向にお構いなく、ユーモアを交えながらゆったり自由気ままに話されることの魅力的なことと言ったら。日々何となく、小さなことにウジウジと悩んでいることがバカらしく思え、そうか、こんな風に生きればいいんだ、と軽い気持ちにさせてくれた映画と監督ご自身だった。会場を去るときには一言、「Au revoir, mes enfants(我が子供たちよ、また会おう)」という言葉を残した監督。あぁ、素敵……。
(文・写真:Maori Matsuura)


関連記事

Page Top