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2018-11-06 更新
マチュー・アマルリック(監督・脚本・出演)
マチュー・アマルリック
1965年10月25日、フランス、オー・ド・セーヌ県ヌイイ・シュル・セーヌ生まれ。父親はフランス人で「ル・モンド」紙の記者、母親はユダヤ系ポーランド人の文芸批評家。
1984年に『Les Favoris de la lune』映画デビュー。1996年公開のアルノー・デプレシャン監督『そして僕は恋をする』で本作の主演を演じたジャンヌ・バリバールと共演、その後ふたりは私生活でもパート―ナーとなり2子を設けるが、その後関係を解消している。『そして僕は恋をする』ではセザール賞有望若手男優賞を受賞、内外にその存在感を発揮した。
1997年には『Mange ta soupe』で映画監督デビューをしている。2004年公開の『キングス&クイーン』と2007年公開の『潜水服は蝶の夢を見る』で、セザール賞主演男優賞を受賞。『潜水服は蝶の夢を見る』はアカデミー賞®に4部門でノミネートされアメリカでも彼の名が知られるようになった。 近年はアメリカ映画にも出演しており、2005年公開の『ミュンヘン』の情報屋のルイや、2008年公開の007シリーズ第22作目『007 慰めの報酬』の悪役ドミニク・グリーンを演じた。
2010年公開の監督作品『さすらいの女神たち』が第63回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、監督賞を受賞するとともに、国際映画批評家連盟賞を受賞。 また2016年には黒沢 清監督の『ダげレオタイプの女』にも出演している。
フランスの名優マチュー・アマルリックが監督、2017年カンヌ国際映画祭、ある視点部門ポエティックストーリー賞を受賞、パリが生んだ20世紀最高の歌姫バルバラが紡ぐ、激情のドラマ『バルバラ~セーヌの黒いバラ~』が、11/16(金)よりBunkamuraル・シネマほか全国順次ロードショーとなる。
この度、監督・脚本・出演を兼ねたマチュー・アマルリックらしいユニークなインタビューが到着した。
いや、だめだ。分からない。伝記映画なんて、しかもバルバラの映画なんて、無理だ! そして脅迫観念が襲ってきた。なぜ追い詰めるのか? なぜこの映画を作るのか?
そこで、伝記映画を観ることにした。『レニー・ブルース』、『Le Debut de Gleb Panfilov』、ケン・ラッセルが監督したBBC放送の「Debussy」、『バード』『ヴァン・ゴッホ』『アイム・ノット・ゼア』『マン・オン・ザ・ムーン』『ラストデイズ』。そして、もうバルドーはいないけれど、デビッド・テボール監督が作ったTV映画「Bardot, La méprise」。アイデアを拝借するつもりで観たドキュメンタリーには、ブルーノ・モンサンジョン監督のTV映画「Richter, The Enigma」、『l'insoumis』がある。古典なら、『モリエール』はもちろん、『テレーズ』 『薔薇のスタビスキー』『アンドレイ・ルブリョフ』、『歴史は女で作られる』。そしてまた現代に戻り、『レイジング・ブル』、架空のバンドをあたかも本物のように描いた『スパイナル・タップ』(未)、 『La Prise du pouvoir par Louis XIV』『市民ケーン』『アマデウス』『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』『Flint』 『ショコラ ~君がいて、僕がいる~』『湖のランスロ』(未)などを観た。そして、これなら何でもできる!そう思った。
資料といえば、人間再生への渇望。記憶の穴とホログラム。策略とその共犯者、儀式、約束、オブジェ、崇拝、恩恵、変身、公現祭、疑い、重ね写し。ドラッグ、幻覚、たばこの煙、印影、虹、それから伝記。これで全部かな? 音楽においては、この言葉しかない。「情熱」だ。
ジャンヌ・バリバールが演じるのは、バルバラではない。映画に登場する女優ブリジットを演じ、その女優がバルバラを演じるのだ。そこから、全てが生きてくる。星に、優しさに、クモの糸に……。愛を奏でる、装置のような映画の中の映画。それを入れ子のように組み合わせていく。
今作は、リバース・ショットで撮影し、フレームを調節し、映像素材と音声を、女優の背景に重ね合わせていく手法をとった。よく練られた物語が歯車のようにかみ合い、毛細血管のように張り巡らされていく。バルバラと、ジャンヌ・バリバールの間に溢れ出る韻を踏む対話は、筆舌に尽くしがたい。
この手作りの伝記映画は、作り話だが、ジャンヌが演じるにふさわしい壮大な舞台となった。
映画は、バルバラの役づくりに入る女優ブリジットを通して描かれていく。ピアノと歌の練習をしながら、試練を経験し、恩恵に浸る女優。実は、この部分は、新しい曲が生まれるところに立会うために、6ヵ月前から撮影していたんだ。
はじめにブリジットはゆっくりと演技を始める。バルバラの曲や言葉を読みときながら。そして次第に衝撃を受けていく。数年の沈黙ののち、バルバラを思う気持ちが溢れ出る女優。女優は、流したたくさんの涙とともに、稽古を中断していたのだ。だが、突然女優はアクセルを踏み、ナントへ向かう。そのテンポはバルバラのワルツに近い。そしてあることを理解する。
のちに女優はこう話す。「相手が恋人か監督か、どこの音楽家か分からないけれど、この歌は涙が溢れる歌なのだ」と。そしてスピードが加速し、場面は、キャバレーへと移る。活気に溢れた舞台。あるいは、プロデューサーが女優と一緒にラフカット映像を見ようとする。彼女が若いスタッフとともに帰ってしまう前に。実際にコンサートを終えたバルバラがそうだった。ときに、女優として生きたかつてのバルバラ。カメラは、それを復元するだけでなく、その反響をも映し出す。
断片、先端、モザイクを、少しずつ並べていくと、無意識の経験に基づいた事実など、何ひとつ加えなくても、ある記憶が浮かびあがる。一曲の歌のような映画。はじめに提案するのは感覚。すべてを信じ切ること。バルバラの魂の再来と平凡さ、神秘と肌、親しみやすさ、そして高揚する感覚。それらすべてが事実であり、本物なのだ。
僕の演じる崇拝者の監督を通して描かれた、これまでになく美しいバルバラの記憶。1973年のツアーを、ジェラール・ヴェルジェがドキュメンタリーに収めたときの、思慮深く、破天荒なバルバラ。映画『我が友フランツ/海辺のふたり』(72・未)でジャック・ブレルがバルバラ本人と彼女が扮する女性を混同したまま海に投げたあのシーン、あるいは、ジャック・トゥルニエの著書「BARBARA Chansons d’aujourd’hui」の感動的な序文。それらすべての記憶がスクリーンによみがえる。
(オフィシャル素材提供)
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