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『セールスマン』オフィシャル・インタビュー

2017-06-05 更新

アスガー・ファルハディ(監督・製作・脚本)


セールスマンsalesman
© MEMENTOFILMS PRODUCTION - ASGHAR FARHADI PRODUCTION - ARTE FRANCE CINEMA 2016
© Habib_Majidi,SMPSP
配給:スターサンズ/ドマ

アスガー・ファルハディ監督

 1972年、イラン・イスファハン生まれ。
 13歳の時に初めて短編映画を撮り、大学進学までに5本の短編を制作。イランのヤングシネマ・インスティテュートで学んだのち、テヘラン大学でも映画を専攻した。大学在学中に数多くの学生演劇の台本執筆、演出を手がけ、この経験がその後の映画作りのスタイルに大きな影響を与える。同大学を卒業後、タルビアト・モダレス大学の舞台監督コースの修士課程に進み、大学入学から10年間に及ぶ修業時代に短編6本を撮り上げ、連続TVドラマの演出や脚本を手がけた。
salesman エブラヒム・ハタミキア監督の大ヒット作「フライト・パニック~ペルシア湾上空強行脱出~」(02・未)に共同脚本家として参加したのち、初の長編映画「砂塵にさまよう」(03・未)で監督デビュー。両親の反対によって愛する女性と離婚するはめになった青年の姿を描いた同作品で、ファジル国際映画祭審査員特別賞、ロシア映画批評家協会作品賞、アジア太平洋映画祭監督賞、脚本賞などを受賞した。続く「美しい都市」(04・未)では殺人罪で死刑判決を受けた18歳の少年の物語を通して、イランの司法制度の暴走を描き、ワルシャワ国際映画祭グランプリを受賞するなど国内外で高い評価を獲得。家政婦の目を通して、ストレスを抱えた中流家庭に鋭く切り込んだ「火祭り」(06・未)では、ファジル国際映画祭で監督賞など3つの賞に輝き、シカゴ国際映画祭やナント三大陸映画祭でも賞を得た。
 日本で初めて正式公開された『彼女が消えた浜辺』(09)は、群像劇の形を取ったミステリアスな心理サスペンスで、ベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)を受賞している。そしてイランの社会事情を絡めてひと組の夫婦の葛藤をスリリングに描き上げた長編第5作『別離』(11)は、フランスで100万人を動員するなど世界各国で大ヒットを記録。ベルリン国際映画祭で金熊賞と銀熊賞(男優賞、女優賞)を受賞したほか、アカデミー賞®、ゴールデングローブ賞、セザール賞の外国語映画賞を総なめにし、ファルハディ監督の名声を一躍高めた。
 2011年にはタイム誌の“最も影響力のある100人”のひとりに選定されている。初めてパリを舞台にしたフランス&イタリア合作映画のサスペンス・ドラマ『ある過去の行方』(13)もフランスで大ヒットとなり、主演のベレニス・ベジョがカンヌ国際映画祭女優賞を受賞した。

 本作『セールスマン』は5年ぶりに母国イランで撮り上げ、第69回カンヌ国際映画祭脚本賞&男優賞のW受賞を皮切りに、世界中の映画祭で高く評価され、『別離』に続き二度目となるアカデミー賞®外国語映画賞に輝いた。現在、ペネロペ・クルスとハビエル・バルデム夫妻を迎えてスペインで撮影される新作の準備中。



 本年度アカデミー賞外国語映画賞受賞、第69回カンヌ国際映画祭脚本賞&主演男優賞W受賞に輝いたイランの名匠アスガー・ファルハディ監督最新作『セールスマン』。6月10日(土)の公開に先立ち、監督のオフィシャル・インタビューが届いた。


フランスで『ある過去の行方』をフランス語で撮った後、なぜ本作品でテヘランに戻って映画を撮ったのですか?

salesman フランスで『ある過去の行方』の撮影が終わった時、スペインを舞台にした作品を書き始めました。ロケ地を選び、台詞なしの第一稿を書き上げ、プロデューサーとメインキャストと議論を重ねましたが、キャスト、スタッフ全員を一堂に集めるためには、一年かかることがわかりました。そこでありがたいことに、イランで映画を撮る時間ができたのです。実際、自分の国で映画を撮らずに、海外で2作品連続で撮るということは、私にとっては、とても容易なことではありません。この後は改めてスペインで新作を撮影する予定です。


どのようにして本作が出来上がったのですか?

 私は頭の片隅に残るようなシンプルな話をいつもメモに取っています。イランで映画を撮ることになったので、私は一年以上にわたって書き留めた散らかったノートを整理し始めました。それとは別に、私はいつも演劇の世界を舞台にした映画を撮りたいと思っていました。若いころ私は演劇をやっていましたので、私にはとても意味のあることなのです。このストーリーは、演劇の設定にとても合っていたので、舞台役者の話ということで脚本を膨らませていきました。


本作は、復讐劇でしょうか? あるいは失われた道徳心の話でしょうか?

 説明したり、要約したり、自分にとって何を意味するのか言葉にするのが、本当に難しい作品です。すべては、観客それぞれの個人的な関心事や物の見方によるのです。もしこの映画を社会的な主張として見るのであれば、その人はその要素を記憶にとどめるでしょう。また、この映画をモラルの話、あるいはまったく違った角度からを見る人もいるかもしれません。私に言えることは、この映画は人間関係、特に家族関係の複雑さを描いた作品であるということです。


映画の冒頭では、エマッドとラナはごく普通の夫婦です。この二人のキャラクターは、イランの中流階級の典型的なものですか?

salesman エマッドとラナは、イランの中流階級です。しかし、二人の関係性、あるいは各個人としては、この二人が中流階級の夫婦の典型とはいえません。二人のキャラクターは、観客にこのカップルは他の夫婦とは違うと思われないようなシンプルな設定にしました。それぞれ個性を持った普通の夫婦。二人は、ともに文化人であり、舞台にも出演している。しかし、二人は、それぞれの性格の予期せぬ側面を露呈する事態に直面することになるのです。


映画のタイトルは、エマッドとラナが友人たちと演じるアーサー・ミラーの戯曲「セールスマンの死」を連想させます。なぜこの戯曲を選んだのですか?

 私は学生の時に、「セールスマンの死」を読み、とても胸を打たれました。たぶんそれは、人間関係を描いているからだと思います。とても成熟した脚本で、いろんな解釈ができます。とても重要なポイントは、都会であるアメリカの突然の変化によって、ある社会階級が崩壊していく時代の社会批判です。急速な近代化に適応できない人々が崩壊するのです。その意味で、この戯曲は、私の国イランの現在の状況をうまく捉えています。物事が息つく暇もないほどのペースで変化しています。そこにある選択肢は「適応」するか、または「死」です。この戯曲の根幹である社会批判は、今のイランにあてはまるのです。
salesman またこの戯曲のもう一つのポイントは、家族、特にセールスマンと妻リンダのような夫婦内の社会的関係の複雑さです。この戯曲には、とても強い切実な訴えがあります。それは感動を与えるだけでなく、観客に微妙な問題を考えさせるのです。私は映画のメインキャストたちが劇団員で、舞台で演じるという設定を決めたときから、ミラーの作品がとても気になり始めました。彼の作品は、映画で作りあげた夫婦の生活と類似性を膨らませることができるからです。舞台では、エマッドとラナは、セールスマンとその妻をそれぞれ演じています。そして彼らの実際の生活でも、気づかぬうちに、セールスマンとその家族に直面していき、セールスマンの運命を選択しなければならない状態となります。


登場人物が新しいアパートのテラスから見た景色は、テヘランの無秩序な開発を思わせます。それは、あなたが暮らしている街の個人的な見解ですか?

 テヘランは、「セースルマンの死」の冒頭でアーサー・ミラーが描いたニューヨークに、今とても近いです。街の様子が恐ろしいほどの速度で変化しています。古いものや果実園、公園が取り壊され、そこにビルが建設されています。まさに戯曲のセールスマンが住んでいた環境なのです。それは、また映画と戯曲との新たな類似点でした。テヘランは、狂乱的に、無秩序に、そして理不尽な方法で変化しています。家族の映画を描くときには、家は大きな役割を果たします。それは『ある過去の行方』でも明らかです。今回も「家」と「街」は中心的な役割を果たしています。


キャスティングについてですが、素晴らしい演技を引き出すために、どのようにその役にあった俳優たちを選ぶのでしょうか。

 映画によって、プロセスは違いますが、本作に関しては、私はこの映画の概要を書いているときから、この夫婦役を誰が演じるか考えがありました。それが、映画の世界に入っていくのに大変役に立つのです。撮影中、私はとても安心した状態でいられました。なぜならみんながそれぞれ役柄のテイストを理解していたからです。


エマッドは普通の人のように見えますが、彼はもうひとつの顔を見せ始めます。怒り、そして復讐を求めます。脚本ではどのようにこのキャラクターを膨らませ、役者にアプローチしたのでしょうか?

salesman 各キャラクターに対して私の頭の中にイメージがあります。役者は、それぞれの役のバックグラウンドを膨らませていき、一緒に議論を重ねることもあります。時には、かなり意見が食い違うこともありますが、その違いがキャラクター自身に大きな影響を与えない限りは、そのままにします。しかし、影響が出る場合は、それを変えるように指示をします。
 タラネ(アリドゥスティ)から「なぜラナは家族と一緒に住んでいないの?」と聞かれました。私は「彼女の家族は違う町に住んでいる」という考えを伝えました。そうすると、彼女は「分かりました。それではこれから私はこの役柄を今までとは変えて演じます。だって、彼女は地方出身ですから」と言われました。


この映画の文脈の中でイランの女性が置かれている状況について、批判的な視点を感じることがありました。ラナの選択は、沈黙を貫いてスキャンダルを避けるものです。この映画でのあなたの意図を教えてください。

 「ガードは固くあれ、身体や家族は隠すものである」という考えを私たちは持っています。イランでは子供の時に、男と女を分けることを学びます。プライバシーを尊重することの欠如です。私は、それに対して意見しているわけではありません。ただ、そういったことが存在するということを言っているのです。このプライバシーの問題に加えて、世間の目もあります。他者があなたを見る目、それがとても重要です。


ジャファール・パナヒ監督とともに、あなたはイランを代表する映画監督の一人といえると思います。あなたのこのようなキャリアに大きな責任を感じていますか?

 私は、重圧は感じていません。むしろ機会が与えられたと考えています。ひとつの映画で、7000万人ものそれぞれの信仰や生活がある多様な社会全体を描くことは、誰もできないことだと認識しています。しかし、ひとつの映画で、ひとつの社会の風景を描くことはできます。それが、たとえ、私の視点であったとしてもです。しかし、映画監督として、自分の才能を限定しない限りは、イランに開かれた窓を提供する機会を与えられていると思っています。


(オフィシャル素材提供)


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