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2015-10-10 更新
オリヴィエ・アサイヤス監督
オリヴィエ・アサイヤス監督
1955年1月25日、パリ生まれ。
1970年代にカイエ・デュ・シネマ誌で映画批評を書き、後に映画作家となる。
『ランデヴー』(85)、『夜を殺した女』(86)などのアンドレ・テシネ監督作品で脚本の腕を磨き、『無秩序』(86)で長編デビュー。
香港スターだったマギー・チャンの起用で話題を呼んだ『イルマ・ヴェップ』(96)、東京での撮影を敢行した『DEMONLOVER デーモンラヴァー』(02)を経て『クリーン』(04)ではカンヌ映画祭で女優賞(マギー・チャン)を獲得。その後もコンスタントに作品を発表し『夏時間の庭』(08)では、日本でも興行的な大成功を収めている。
2014年の第67回カンヌ映画祭コンペティション部門に出品され、米女優として史上初のセザール賞助演女優賞をクリステン・スチュワートにもたらした、フランス映画界の若き巨匠オリヴィエ・アサイヤス監督の最新作『アクトレス ~女たちの舞台~』。ジュリエット・ビノシュ演じる、かつて一世を風靡した大女優の孤独と葛藤を描く極上のドラマを送り出したアサイヤス監督のインタビューが届いた。
ジュリエットからインスピレーションを受けて作った作品だ。今回の作品を作るにあたっては、まずは『夏時間の庭』の世界的成功があり、しかしジュリエットはあの作品の中では大きなパズルの中の一つのピースに過ぎず、欲求不満があったのだと思う。私たちは長いつき合いもあったから、『夏時間の庭』での協力関係をさらに突き詰めて、また一緒に仕事をする価値があるのではないかとジュリエットは考えたのだろうね。そして、彼女のほうから私に電話がかかってきたんだ。私たちは昔『ランデヴー』という作品で俳優と共同脚本家として出会った。それからとても長い時間が経過したということに気づき、めまいがするような気がした。私は、その“時間の経過がもたらすめまい”について映画が作れるのではないかと考えたんだ。
マリアとジュリエットを切り離して考えることはできないが、マリアはジュリエットを巡るキャラクターとして私が空想して作り上げた人物だ。実際にはマリアとジュリエット本人は、似ているところもあれば違うところもあるだろうが、ジュリエット自身もこの役を演じることを楽しんでいたと思うよ。マリアの役は映画を観る人が「ジュリエット・ビノシュはきっとこういう人だろう」と想像するジュリエットのイメージに似ているのではないかな。ジュリエット自身も完全にマリアと同じではないけれども、そうなったかもしれない人物として楽しく演じ、自分を作品に投影してくれたと思う。
クリステンは確かに『トワイライト』の成功とメディアによって有名になったが、彼女はユニークな存在感のある稀有な女優だと思っていた。ショーン・ペン監督の『イントゥ・ザ・ワイルド』の時から、端役でも存在感があったからね。彼女はとてもカメラ映りが良い、アメリカ映画の女優としては稀有な存在だ。ハリウッドの大作に出ている彼女にとって、ヨーロッパのインディペンデント映画はリスクかもしれない。その代わり、私は彼女にはこれまでの映画では与えられなかったものを与えてあげられるのではないかと思ったんだ。人工的に作り出された役柄ではなく、彼女自身のインプロビゼーションができる十分な時間を与えた。それは人工的に作り出された登場人物とは違うものとなり、今回の私の演出によって彼女のキャリアのある一時期に発見があり、自分が想像しているよりももっと長く女優としてのキャリアを伸ばしていけるのではないかと思ったね。
クロエに関しては、当初は成熟した大人な若い女性を探していたのだけれど、何よりも彼女には狡猾さがあった。役より実年齢がかなり若かったが、クロエに会って、彼女でいこうと決めた。結果的にはそれぞれの役で最初に選択した二人が出演してくれて、(キャスティングは)大成功したと思う。
ジュリエットとクリステンはそれまで全く会ったこともなかったのだけど、撮影の初日と2日目で冒頭の列車のシーンを撮った。撮影を重ねるにつれて、彼女たちの間に徐々に信頼や友情や敬愛の気持ちが芽生えていったみたいだった。もともとクリステンはジュリエットの生き方や仕事ぶりを見ていてリスペクトしていたそうだよ。ジュリエットとクリステンの関係がうまくいくことがこの作品にとって重要なポイントだったから、実は準備の段階では不安になり、私は危険を冒しているのではないか?という気がしてきたんだ。もしも、ジュリエットとクリステンの気が合わずに二人の間に緊張が漂ったら良い映画にはならなくなると心配したね。ところが実際には全くそんなことはなく、脚本を書いた時と違うものになったのは彼女たち自身の演技と力動性のおかげなんだ。クリステンにとってジュリエットは、自由と精神のバランスを保ち続けてきた女優であり、そのメカニズムとビノシュのキャリアの道程を学びたいと思っていたようだよ。かたやジュリエットがクリステンの中に見たものは、若いけれど映画に対する情熱があることだった。お互いに刺激し合い、いい意味での競争心があった。私はそんな二人を観察し、二人の関係が進展するのをドキュメンタリーのように撮影しただけなんだ。
私はもともと全くリハーサルを行わないんだ。セリフを言うときの自発性がリハーサルによって失われることを恐れている。俳優たちが初めてセリフを言う時には、もう現場のカメラは回っている。もちろん女優たちはそれぞれ、自分で稽古をしてくるだろうが、わたしはインプロビゼーションを大事にしているんだ。クリステンはセリフ覚えが良く、その日の朝にセリフを覚えてきていたよ。
私は脚本家でもあるので、監督と脚本家を同一のものだと考えている。自分が書いた脚本で、女優の人間性を探求することができるので、彼女たちが私の脚本から何を感じてどう演じるのだろうかと、とても興味深く見ている。私が心掛けているのは、映画は集団芸術であるということだ。一方的に指揮するのではなく、共同作業であるので、現場にいる者全員が貢献できるような環境をつくること。俳優がしっかりと呼吸できる現場の環境をつくることも監督にとって大事なことだと思っている。
三人ともこの映画がとてもユーモアのある作品だと理解していた。また、全員ハリウッドでの映画の経験があるので、ハリウッドが昔よりさらに産業的な側面を強めて、拘束も多く、自由にクリエイションする余裕がないことを知っている。皆が苦しんだとまでは言わないまでも、その重圧は感じていると思うので、そういったことに対して皮肉な距離をとっていることを楽しんだのではないかな。なかでもクリステンは、映画を巡るメディア産業にシニカルな視線が投げかけられていたことを楽しんでいたみたいだった。
人生には様々なチャプターがあって、まさにマリアは大きな変貌の時にある。女優として自分にはもう演じられない役があるのだということを受け容れるのは苦しいことだろうね。女優という仕事は、実生活では感じなくてよい苦しみに直面しなければいけない辛い仕事であると同時に、実生活ではそれを逃れられもするので、マリアにとってはその点が希望にもなるのではないかと思うよ。
(オフィシャル素材提供)
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