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インタビュー

トップページ > インタビュー > 『フォンターナ広場―イタリアの陰謀』オフィシャル・インタビュー

『フォンターナ広場―イタリアの陰謀』
オフィシャル・インタビュー

2013-12-20 更新

マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督


フォンターナ広場―イタリアの陰謀fontana
© 2012 Cattleya S.r.l. - Babe Films S.A.S

マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督

 1950年、ミラノ生まれ。
 処女作『Maledetti, vi Amerò(呪われた者たちを愛す)』が1980年のロカルノ国際映画祭でグランプリを受賞。その後も戦後イタリアの現代史に題材を取りながら、同時にみずみずしく豊かな映像表現で、単なる政治映画とは一線を画した、人間的な秀作、傑作を生み出している。1995年に発表した『Pasolini, un delitto italiano(パゾリーニ、イタリアの犯罪)』は、パゾリーニ暗殺事件に迫り、その真実を世に問うた問題作。
 2000年の傑作『ペッピーノの百歩』はベネチア国際映画祭はじめ多数の映画祭で絶賛された。2003年の『輝ける青春』は1966年から2003年にいたる37年間のイタリア現代史を一つの家族の姿を通して描いた6時間余の大河ドラマで、当初各1時間半の4回シリーズのTVドラマとして企画されたが、最終的に劇場公開映画として完成させ、カンヌ国際映画祭ある視点部門で最優秀賞を受賞。興行的にも世界中で記録的な成功をおさめた。

 『ペッピーノの百歩』(2000)、6時間余の超大作『輝ける青春』(03)、『13歳の夏に僕は生まれた』(05)など、イタリア現代史の闇をえぐりつつ、瑞々しく叙情性豊かに物語を紡ぎ出すイタリアの名匠、マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督。1969年12月12日にミラノで起きた銀行爆破事件の謎に挑んだ『フォンターナ広場―イタリアの陰謀』の日本公開を前に、監督のインタビューが届いた。


1969年に起きたフォンターナ広場爆破事件を、事件から40年を経た今、映画にしようと思ったのはなぜでしょうか。

 まずひとつは、とてもパーソナルな理由からです。この事件が起きた直後、偶然私は現場近くにいたのです。私は19歳で、大学へ行く途中でした。とても大きな衝撃をうけ、以来この事件を忘れたことはありませんでした。映画監督として仕事をするようになり、いつか事件についての映画を撮りたいと胸に秘めていました。もうひとつの理由は、イタリアの若者の多くが、事件について何も知らないと感じたからです。私は、歴史的事件は忘れ去られてはならないと考えています。何が起こったかを知ることは、時代を経たとしても、とても大切です。そして「映画」という手段は、他の手段と比べ、何が起こったかを真に伝えることができる手段だと信じています。この爆破事件は、裁判で真犯人を罰することができなかっただけではなく、何が起こったのかさえ、民衆にきちんと伝えることができていない事件です。もしも映画でこの事件について、しっかりと描ければ、私がいつも「その国の時間的感情(sentimento del tempo del paese)と呼んでいるものを表現することができる。それによって、私たちの国の歴史のかけらの中から、その国の社会的、心理的、歴史的な真実を見出すことができるのではないか。そう考えました。
 どんなに重要な出来事でも、また個人的に言えば、どんなに大切な記憶でも、それについて語ることがなければ、それは消えてしまうのです。


イタリア人にとっては、どれほど重要な事件なのでしょうか?

 事件において、最も重要な点は、「農業銀行」という政治的には意味のない、利用者は資産家でもなく、ごく一般的な市民である、という場所で、初めて一般市民が爆弾によって殺害されたということです。それまでも爆破事件や虐殺事件がなかったわけではありません。例えばシチリアでは「ポルタ デッラ ジネストラ虐殺事件」(1947年)などが起こっていますが、それは政治的理由のある場所で起きた事件です。一方「フォンターナ広場爆破事件」は ごく普通の場所に爆弾が仕掛けられ、普通の市民が恐怖に陥らされ、なんの理由もなく殺害された、いわゆる「テロ事件」です。この事件によって、それまでとは異なる全く別の時代の幕が落とされたわけです。それはイタリアの「テロの時代」=「鉛の時代」と呼ばれる時代です。この時代には「社会的緊張の戦略」と呼ばれた政治的闘争の中で、盲目的なテロリズムが「心理的圧力」を社会に及ぼす「道具」として使われ、社会の安定を揺るがし、恐怖をもたらす役割を果たす。それは、その後20年以上にも渡ってイタリア人に強い影響を及ぼし、イタリアの文化、習慣を心理的不安に落としいれたのです。


パオロ・クッキアレッリの本が出版されたことも、影響しているのでしょうか?

 クッキアレッリの本は事件について大変具体的に総括的に要約した本です。その内容については、疑問を呈する点がいくつかありますが、事件を構成する様々な要素を可能な限り集めているという点では、事件を理解するために参考になりました。しかし、非常に複雑な事件なので、私は、この本の情報だけでなく、自身で知り得た、それ以上の資料を基にしています。


「2つの爆弾説」という仮説について、少々説明していただけますか。

 クッキアレッリの本では、1つは小さな木製の爆弾だったとしています。それは銀行が閉店した後に爆発するはずだった。金曜日の午後だったので、多数の犠牲者が出ることはなかった。その爆弾を仕掛けたのは、ミラノのアナーキストで、彼らの組織には、組織を破壊する目的で対立する組織の人間が多数潜入していて、組織に潜入していたネオファシストは、アナーキストたちの計画を知っていた。そこで、ネオファシストは、アナーキストが仕掛けた爆弾が爆発する前に、つまり銀行がまだ閉店する前に爆発するもう一つの爆弾を仕掛けた。銀行内にまだ大勢の人々がいる時間帯に、です。
 しかし、私の個人的な見解では、この爆弾は2つともネオファシストの仕掛けたものだったと思っています。しかも2つとも「殺戮」の意図のもとに仕掛けられたと。2つのうちの少なくとも1つはきちんと爆発するように、という単純な理由からです。なぜ私がそういう結論に達したかというと、多くの爆破事件の鑑定記録によると、この事件以前には、爆弾が仕掛けられても爆発しなかったケースも多かったからです。私は、秘密工作員も加担し、爆弾が必ず爆発し、必ず殺戮事件となるようにという意図で仕掛けられたと考えています。この点で、私の説は、クッキアレッリの解釈をさらに修正したものになります。もちろん、クッキアレッリの説も私の説も、それぞれにどちらもそれを裏付けるような資料が存在していますが、しかしながら、それはどちらも仮説にすぎません。今となっては、実際はどうだったのかを証明する方法がないのです。


実際の事件を描くにあたって、いろいろなアプローチが考えられたと思いますが、カラブレージ警視とアナーキストのジュセッペ・ピネッリを中心に据えたのは、どんな理由からでしょうか?

 二人を結びつける関係は、この事件のなかで、とても当惑させられる要素であると同時にとても魅力的なものだからです。彼らは、フォンターナ広場爆破事件の「さらなる2人の被害者」だと言えます。この事件は、その後も陰謀、暗殺、復讐という連鎖を生み、被害者のリストはどんどん長いものになっていきました。銀行の中で命を落とした被害者だけではなく、アナーキストのピネッリも警察の建物から墜落死を遂げ、カラブレージ警視はピネッリ殺害のぬれぎぬを着せられ――着せられ、と私が言うのは、ピネッリが墜落した際、カラブレージ警視は取り調べ室にいなかったことが分かっているからですが――事件の2年後に極左の人物に暗殺されているからです。この暗殺事件についても、ファシストや秘密警察の関与や証拠隠滅の可能性がないとは言えないです。
fontana 二人は、互いに対立する立場でありながら、互いを尊敬していたとする資料があります。こういう関係はドラマを作る上で、非常に興味をそそられるものです。現実に起こった具体的要素はもちろん重要ですが、それと同時に心理的要素はドラマの登場人物を作り上げていく上で極めて重要です。その意味で、この映画を単なる事件映画や刑事映画、実録ドキュメントの映画にせず、当時のイタリアに起こったことを、人間の感情を描きながら語るには、二人に代表される人間の視線が必要だったのです。ピネッリとカラブレージ警視、二人の人物像は、この事件を物語るには最適だったと思います。
 映画での二人の描き方について、イタリアでは「歪めた描き方だ」という批判もありました。そうかもしれません。確かに私の映画で描いた事実と違うこともあったかもしれません。しかし、私の解釈は、裁判の判決よりも、真実に近いと信じています。多くの判決文やこの事件について書かれたおびただしい書物の解釈やのどれよりも、私の描き方は真実に近いと。それは「偏見」や「先入観」を打ち壊すことになるでしょう。私の映画は、これまでのどの説を支持するものでもなく、私が知りえたことを描いたのです。これまでの歳月の中で明らかになった事柄。当時は誰も知らなかったこと、知りえなかったこと。推測することはできても、証拠がなかったこと。そう、パゾリーニが言ったように。


実際にこの二人の人物には会ったことはあったのですか。

 ピネッリには、会ったことはなく、見かけただけです。しかし、カラブレージ警視には会ったことがあります。私が高校生のとき、学生運動で学校を占拠したことがあり、その時に私を取り調べたのが彼でした。私は高校を占拠した首謀者の一人でした。カラブレージ警視は当時30歳で、とても若かった。今思えば、取調べるほうも調べられるほうもとても若かった。こんなに歳月が経ってしまったことに、不思議な気がします。高校生といえば、悩みのない楽しい時期であって良いはずですが、私の過ごした時期は、血の匂いさえする闘争の時代だったと言えます。


事件の関係者で、まだ存命者がいるにも関わらず、すべて実名で映画化するのは、多くの困難があったと思いますが、「実名での映画化」という点からは何かご苦労がありましたか?

 映画で描くためには、公的に残されている裁判の判決記録はもちろん、公的証拠が残されていない事柄なども、最大限に注意して極めて慎重に用心深く扱わなければなりません。映画という大きなスクリーンに映る映像で扱う場合には、特に大きな影響力を持つことになるからです。しかし、だからといって、私にとって、それは苦労ではありません。この映画だけでなく、常に史実を映画にする時には慎重でなければならないと心得ているからです。実際に起こった出来事を扱うからといって、それが困難ということにはなりません。


まだ存命のカラブレージ夫人や、ピネッリ夫人にはお会いになりましたか?

fontana もちろん二人ともに会いました。実際この二人の女性は、事件によって大きな損害、大きな傷を受けましたが、それぞれがそれぞれに、大きな愛情や勇気、尊厳のある態度を身をもって示しています。その点に、私はいつも深く感銘しています。二人は二人とも「復讐」ではなく「公正な裁き」を求めています。この事件では女性たちは社会的に大事な一つの行動規範のようなものを示していると思います。映画の中で二人の登場場面は、短いシーンではありますが、映画を観た人の記憶に残る印象的なシーンがいくつかあると思います。例えば、ピネッリの遺体にあった傷について、彼の妻が「それは子どもと遊んでいたときについた傷」だと発言するシーンです。事実があいまいなことを逆手にとって、警察で拷問を受けたときに出来たものだ、と証言することもできたにも関わらず、この証言が逆に彼女の立場を弱くすることになる可能性もあるにも関わらずです。法廷で彼女は「私は真実を恐れない」と言います。あくまで「真実が知りたい。公正な裁きがほしい」と言う彼女の態度に、感銘を受けずにはいられないでしょう。誰も真実を言わなかった当時に、彼女はごくシンプルに真実を話したのです。


キャスティングについて。カラブレージ警視役のヴァレリオ・マスタンドレア、ピネッリ役のピエルフランチェスコ・ファヴィーノを起用した経緯、彼らの演技で特に印象深い点を教えてください。また、その他の出演者ついても教えて下さい。

 カラブレージ役のヴァレリオ・マスタンドレアは、実はローマ出身です。しかし、彼は、映画でしばしば描かれる「ローマ出身者」の性格とはまた違ったタイプのローマ人です。彼はこれまで、どちらかといえば喜劇映画で活躍してきたのですが、演技の「間」を大切に、そのタイミングを計るのが天才的に巧い俳優として有名で、私は彼が大好きな俳優だったのですが、今まで一度も一緒に仕事をしたことがなかったので、今回の映画にはまさに彼の個性が適役だと思いました。ピネッリを演じたフランチェスコ・ファビーノとも、これまで一度も一緒に仕事をしたことはありませんでした。彼も大変に優れた俳優で、特に彼は他の人物の特徴を捉えることに才能を発揮していました。そして実は、彼もローマ出身。ところが、ローマ出身でありながら、60年代のミラノのプロレタリアート階級の人物を、なんと当時のミラノで話されていた方言を使って見事に演じたのです。二人の演技は、観客に嘘偽りのない「真正性」を感じさせるでしょう。それがこの映画にとってとても大事なことでした。そして、彼らだけでなく、この映画に出ているファブリツイォ・ジフーニ、ミケーラ・チェスコン、ルイージ・ロ・カーショ……すべての俳優が、とてもプロフェッショナルな俳優です。
fontana 私が俳優に常に求めていることは、「真正性」と「自然さ」です。脚本を演じている感じがないこと。つまり「彼らはずっとその環境で生きていて、そこに撮影カメラが入って撮影しているが、彼らは撮影されていることを知らない」。観客がそんなふうに感じてくれることが大切です。映画のどのシーンでも、どのカットでも、演技を撮影しているのではなく、そこに存在するものを「盗み撮りしている」感覚です。この「自然さ」を得るためには、俳優の演技のコントロールが完璧であり、演技していることを忘れさせるほどの演技力を身につけていることが前提となります。それは「自然さ」の対極にあると感じるかもしれませんが、演技に対して高度に洗練された自覚があることから「自然さ」が生まれます。この映画の出演している俳優全員が、この特質に恵まれていると私は思います。例えばほんの一言のせりふでも、その一言にはそれしか考えられないような真実味があります。そして全員の演技の質が、均一で高度です。俳優間での力量の差がないのです。演技の質における差、方言の演技の質における差もありません。それぞれが(役の上での)「自分の故郷の方言」、ミラノ、ローマ、ピエモンテ、ナポリの方言を話しています。事件があった当時は、今よりずっと方言が話されていて、私の同年代の俳優は、そういう時代を知っているから演技しやすいかもしれませんが、その後の時代に生まれた若い俳優たちは、その時代がどういうものだったか知らないので、さぞ大変だったでしょう。おそらく、俳優それぞれが資料を調べ、当時の映像をよく研究して、それぞれに役作りを行ってくれたと思います。だからこそ全員が完璧なまでにその人物になりきれたのです。毎朝撮影所に行くと、俳優が「ねぇ、トゥーリオ、このシーンはこうしたらと思ったんだけど」と話しかけてくるのです。全員が自分で役を研究し、映画に貢献しようと積極的で、消極的な人はいませんでした。


俳優たちについて何か具体的なエピソードを教えていただけませんか。

 例えば、ピネッリの尋問シーンです。あのシーンは、ある小さな劇場を使って撮影したのですが、休憩を入れず時系列に従って、ぶっ続けで丸1日で撮影することにしました。実際の尋問は3日間飲まず食わずのような状態で行なわれ、心理的にも身体的にも疲労困憊状態だったはずなので、俳優たちをそんな状態に置きたかったのです。ピエルフランチェスコ・ファビーノ(ピネッリ役)は、撮影の終わりには、どんなに声を振絞っても出ないような状態で、ただ喉がガラガラという音を立てているだけになりました。私は、いつも「起こった現実をその通り描きたい」と思っていますが、きっとピネッリに起きたことはそういうことだったと思います。


監督が「ああ、これはいい」と思うような俳優の習慣や癖などのエピソードはありますか。

 そうですね。この映画に出ている俳優たちは、とても真面目で誠実で、俳優としての準備を熱心に行なって撮影に望む俳優ばかりです。例えばアルド・モーロ役のファブリツイォ・ジフーニですが、モーロはイタリア人なら誰でも知っているし、生前の映像を見たことがある人が多い有名人です。そういう人物を演じるのは、大変なことですが、彼は出来る限りの資料を読み、テレビニュースなどで流れた映像を見て、モーロと言う人を研究していました。彼はもともと、とても細部に渡って入念に準備し、鏡を見てチェックを繰り返してからスタジオ入りする俳優です。ある日撮影現場で、脚本にはなかったシーンを付け加えようと思い、その場で脚本に書き入れ、ファブリツィオに渡したのですが、すると彼は「僕はきちんと準備しなくては演じられないのに、現場で突然言われたらどう演じたらいいのか……」と突然のことに一瞬パニックに陥ったようです。
 そこで、私は「君はもうアルド・モーロなんだから、何も考えなくていいんだ」と彼に言いました。彼はすでにその時点で、モーロのように話し、モーロのような仕草をし、完全なまでにそのシーンの中に入り、そのシーンを生きていました。そして、その場で脚本に付け加えられたシーンも、見事に演じました。このエピソードは、俳優が一度、その役を演じるときの「鍵」を見つけたら、その後はすべてたやすくなる、ということを証明しています。


監督の映画の素晴らしさは、歴史、時代、社会問題を描きながら、それ以上に、そこに生きている人々の感情が観客の心に触れることだと思います。そういう映画にするためにいつも心がけていることは何ですか?

 私はいつでも 映画を作る時に、それが子どもにも外国の観客にも理解してもらえるものであるように心掛けています。子どもは、知識はなくても、勘を働かせて、事の関係性などに気づいたり、感じたりすることができます。一方、外国人は、私たちが知っているようには私たちの国(イタリア)の歴史を知らないので、「当然知っているだろう」こととして省いたりせず、説明いなくてはなりませんが、「説明」というより、映画で扱っている事柄が分かるように「見せる」ことを大切に、さらにそれを、寓話を語るように語ることを心がけています。歴史の授業のように説明するのではなく、事実を、それが起こった状況で、その時に本当に語られた真実の言葉で、劇作家や詩人、作家が語るように語ることです。


事件の起こった農業銀行の再現や、出演者の衣裳、車など、おそらく当時の再現に非常にこだわられたと思いますが、どんな衣裳や美術、小道具などでこだわったポイントを教えて下さい。

 時代を再現することは、困難などではなく、映画作りの中の楽しい作業の一つです。私は、これを「仕事」だとは思っていません。人生がくれた「贈り物」のようなものだと思っています。子どものとき自分の世界を空想しながら遊んでいたこと、想像していたことを大人になって実現しているのです。「銀行を建てよう、さぁどんな銀行にしよう」と。私は仕事への要求が高く、几帳面なほうだと思うので、時には製作スタッフに「もう8時間もやって、ほとんど出来上がっているんですから、ここで止めましょう。今夜は眠りましょう」と止められることがあるほどです。でも、夢中になっている時には、どんなに疲れているのかに気が付かないのです。


撮影にはすべて本物のものを持ち込みたいと思われているんですね。

 そうです。全て真正な要素を映画に入れたいのです。物(オブジェ)は語りかけてきます。ふさわしい車、ふさわしい色、たとえ観客が知らなかったとしても、見れば本物の感じがする。物から伝わるのです。「そう、まさしくこれだ」というものが。たとえそれがシーンの中心にはなくても、映像の隅に映っているものであってもです。例えば、取調室のシーンで、当時の取調室がどんなものだったかを再現するためには、映像の隅に映っているものでも調和良く映るような本物でなければなりません。映画のために新しく準備したものであっても、それが本物らしくなくてはならないのです。


『輝ける青春』もそうでしたが、監督にとって1960年代後半から1970年代というのは非常に重要な時代なのだと感じています。監督個人にとって、そしてイタリアにとっての、その重要性とは何なのでしょうか? そして、フォンターナ広場爆発事件が、今日のイタリアに及ぼした影響は何でしょうか?

 それは、その時代に現在のイタリアが作られた、と考えているからです。「良く」というよりは「悪く」作られた、という意味ですが。つまり、その時代にそれまで確信を持っていたことが崩壊し、尊厳や価値、政治や教育などすべてがその時代に崩れ、その後には、サーカスのような狂躁が覆い、無責任な笑劇のような現代のイタリアがあらわれたのです。その時代にたちかえってみると、当時は本当に「変革の時代」だったと思えます。すべてがあの時代に起こったことの継続であり、結果なのです。
 例えば、病気に対する抗体というものがありますが、現代という時代について考えると、もはや病気は身体的な問題のレベルではない。つまり病気に対する具体的な抗体はもはや存在せず、問題は心理的なものになってしまったように思えます。これは一種の「無気力症」と呼ぶべきもので、何かしたいという欲もなく、希望もなく、何かを変えるきっかけもなく、意欲もなく。それが当時と今の大きな違いです。私は、それをとても残念に思っています。自分の国が好きだし、この国がこの心理的な危機を乗り越えるのを見たい、無気力症の被害者のままでいる国を見ていたくないと思っています。


共同脚本のサンドロ・ペトラリアやステファノ・ルッリとは何度も仕事をしていらっしゃいますが、今回の映画では、どのように脚本を完成させていったのでしょうか?

 これで、共同で4本の脚本を書いたことになります。何度も資料の読み込みをして、議論などを戦わせる会議をして、その後、一度会わないようにします。「さよなら、もう会うことはないよ。次回からは、手紙でやりとりをしよう」と言って。そして彼らが、私に書き上げた脚本を送り、私はそれを訂正したり、加筆したりする。こんなふうに、会わずにやりとりをし続けます。会ってしまうと、相手に文句の一つも言いたくなるし、喧嘩になるかもしれないからね(笑)。そして、お互いが納得するまで、「こういうのは嫌いだ」「では、こうやってみよう」「いや、こうしよう」などと、何度も何度も書いたものを交換し、推敲し続ける。このやり方は、今のところは上手くいっていると言えるでしょう。
 しかし、こうして長い時間をかけた脚本であっても、実際に撮影する現場で、別のアイデアが浮かんだ場合には、私はかなり自由に扱うことにしています。もちろん、作品自体を十分に勉強し、しっかりした裏づけを持っていないと現場で自由に変更する確信を持つことはできませんが。


今までお話を伺っていると、「はじめに徹底的に勉強し、そして一度それを忘れる。そしてまるで勉強なんかしなかったように、実際に行う」というのが監督のお仕事の姿勢だと感じられます。

 おそらく、それは私が子どものときから音楽を勉強していたせいかもしれません。音楽は曲を勉強し、分析しますが、いざ演奏するときには、「自分で表現する」ものだからです。だから音楽は、毎回違ったものになります。しかし、それを可能にするためには、作曲者の意図や曲自体を深く知らなければならないのです。


今後、映画化したいテーマや題材がすでにあれば教えて下さい。現在進行形のことでも、差し支えなければ。

 次のプロジェクトは演劇作品です。映画については、まだ計画を具体的にするまでいっていませんが、1950年代から活躍し、アメリカへ渡って70年代には『キングコング』などをつくった伝説的なイタリア人映画プロデューサー、ディーノ・デ・ラウレンティスについての映画を作れたら、と考えています。


日本公開にあたって、日本の人たちに伝えたいメッセージを聞かせて下さい。

 映画は観る人に、映画で描かれている世界との強い「同化現象」をもたらすものだと思います。私は若い頃、日本映画を観れば日本人になったような気がし、中国映画を観れば中国人に、アメリカ映画ではアメリカ人になったような気がしたものです。映画は、異なる文明や文化、時代へと人を連れていってくれます。言葉が分からなくても、観れば分かる。映画は結局、世界は似通ったものだと感じさせてくれるものなのです。確かに、気候や文化や食生活などは違う、でも結局は人間、男も女も、違う場所に生きている人間でも共通するものはあるのです。
 日本で「秘密保護法」が取りざたされていることは、つい最近知りました。政府が国民の知る権利を尊重しなければ、国民は国を信じなくなるでしょう。イタリアも日本も、戦前にファシズムを経験しています。しかしファシズムは過去の話ではありません。情報を隠すことも、人々を縛り、自由を剥奪するファシズムといえるでしょう。楽しい映画ではありませんが、日本の観客の皆さんが、イタリアの暗い歴史の1ページを扱ったこの映画を観ながら、この映画の時代に入り込み、自分が経験したことのように感じてもらえたら嬉しく思います。


(オフィシャル素材提供)


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