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2008-02-08 更新
実際には存在しない子供のおかげで、ロルナは人間性を見出し、前よりも優しい存在になった
ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督、アルタ・ドブロシ
【ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督】
兄のジャン=ピエールは1951年4月21日、弟のリュックは1954年3月10日にベルギーのリエージュ近郊で生まれる。リエージュは工業地帯であり、労働闘争のメッカでもあった。
ジャン=ピエールは舞台演出家を目指して、ブリュッセルへ移り、そこで演劇界、映画界で活躍していたアルマン・ガッティと出会う。その後、二人はガッティの下で暮らすようになり、芸術や政治の面で多大な影響を彼から受け、映画制作を手伝う。原子力発電所で働いて得た資金で機材を買い、労働者階級の団地に住み込み、土地整備や都市計画の問題を描くドキュメンタリー作品を74年から製作しはじめる。同時に75年にはドキュメンタリー製作会社「Derives」を設立する。78年に初のドキュメンタリー映画“Le Chant du Rossignol”を監督し、その後もレジスタンス活動、ゼネスト、ポーランド移民といった様々な題材のドキュメンタリー映画を撮りつづける。86年、ルネ・カリスキーの戯曲を脚色した初の長編劇映画『ファルシュ』を監督、ベルリン、カンヌなどの映画祭に出品される。92年に第2作『あなたを想う』を撮るが、会社側の圧力による妥協の連続で、二人には全く満足できない作品となってしまう。
前作での失敗に懲りた彼らは、第3作『イゴールの約束』では決して妥協することのない環境で作品を製作、カンヌ国際映画祭国際芸術映画評論連盟賞をはじめ、多くの賞を獲得するなど、世界中で絶賛された。続く第4作『ロゼッタ』ではカンヌ国際映画祭でパルムドール大賞と主演女優賞を受賞、本国ベルギーでの成功はもとより、フランスでも100館あまりで公開され大きな反響を呼んだ。さらに2002年、第5作『息子のまなざし』でもカンヌ国際映画祭で主演男優賞とエキュメニック賞特別賞をW受賞する。また2005年カンヌ国際映画祭にて第6作『ある子供』では史上5組目(他4組はフランシス・F・コッポラ、ビレ・アウグスト、エミール・クストリッツァ、今村昌平)となる2度目のパルムドール大賞受賞者となる。そして、本作『ロルナの祈り』では2008年の同映画祭において脚本賞を受賞し、4作連続主要賞受賞の快挙を成し遂げた。近年では共同プロデューサーとして若手監督のサポートも積極的に行っており、2003年のカンヌでも、ソルヴェイグ・アンスパック監督作品『陽のあたる場所から』など、共同プロデュース作品が3作品上映されたほか、その後も2005年コスタ・ガヴラス監督『斧』を含む2作品のプロデュースを手がけた。名実共にいまや他の追随を許さない、21世紀を代表する世界の巨匠監督である。
【アルタ・ドブロシ】
1979年コソボ共和国、プリスティナ生まれ。プリスティナ舞台芸術アカデミーに4年間在籍。プリスティナおよびサラエボで舞台経験を積む。2004年、コソボの大虐殺を追ったドキュメンタリーで歌を担当。また、10数本の短編映画と数本の長編映画に出演する。2005年のKujtim Cashku監督『MAGIC EYE』により、2007年にマケドニアのシネデイズ・ヨーロッパ映画祭で優秀女優賞と特別賞を受賞した。2007年、オーディションで本作の主役を射止める。撮影前にベルギーのリエージュに滞在し、わずか2ヵ月でフランス語をマスターしたという知性に加え、官能性を秘めた美しさで監督たちを魅了した。
配給:ビターズ・エンド
恵比寿ガーデンシネマで公開中ほか全国順次ロードショー
ベルギーの名匠ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督が、初めて女性を主人公に据え、社会に翻弄されながらも懸命に生きる移民女性のひたむきな愛を描いた『ロルナの祈り』。監督と主演に抜擢されたアルタ・ドブロシが揃ってインタビューに応えてくれた。
ジャン=ピエール・ダルデンヌ監督: 実は、女性を撮りたいという思いはかなり以前からあった。だから、ベースは何年も前からあったんだ。ただ、女性を主人公にした映画を創れるようになるまで時間がかかった。自分たちがその映画を創れると思えるようになるまでかなりの時間が経ってしまったと言ったほうがいいだろう。その間に他の人物を主人公にした映画を創った。つまり、私たちと彼女の間に他の人物たちが入り込んできて、実現するには至らなかった。ある程度時間が経ったから、私たちは彼女に出会えたのだと思う。
リュック・ダルデンヌ監督: どのような女性なのかというのは全く決まっていなかった。ひとりの女性がいて、ある男性に出会うということまでしか決まっていなかったんだ。実は、ストーリーのきっかけになった実話は随分以前に聞いていたんだが、それをある時、ふいに思い出した。正確には、前作の『ある子供』をニューヨークでプロモーションした際、フランス人の共同製作者ドゥニ・フレイドが「次回作はどういうものになるんだ?」と質問してきた時に、以前に聞いたことがあった実話を思い出したんだ。それはあるベルギー人女性のソーシャル・ワーカーから聞いた話で、アルバニア系のマフィアが麻薬中毒患者の弟に、ベルギー国籍を取得させるため売春婦との偽装結婚を持ちかけてきたのだそうだ。ただ、彼女の知り合いで、同じようにアルバニアの売春婦と偽装結婚した後に麻薬の過剰摂取で死んでしまった人がいて、それが事故なのか殺人なのか分からなかったという例があったので、弟に「その結婚は止めたほうがいい」と言い、結局は実現しなかったという。つまり、金銭と引き換えに偽装結婚を持ちかけられ、離婚する際にもその2倍、3倍の金を払うという約束をもらうが、結局は麻薬の過剰摂取で死んでしまえば、マフィアは金を払わずに済み、偽装結婚であることもばらされずに済むわけだね。
私たちはその話を思い出し、次回作のストーリーをそれにしたらどうかと思ったんだ。ただ、ヒロインを売春婦という設定にはしなかった。売春婦にすると、そのイメージの中に主人公を閉じ込めてしまうことになるので。だから、カッコ付きではあるが普通の女性、皆さんや私たちのような普通の人で、ただし彼女はある状況の中に囚われていると考えた。一方には、ベルギーに住みついてはいるが日の当たらない場所にいて、より良い生活を求め、人生において成功したいという夢がある。もう一方には、それを実現するためには麻薬中毒の男性の死、誰かの死を受け入れなくてはならない。どちらかを選ばなければならない、そういうストーリーにしようと思った。これが出発点だった。
だから、ソーシャル・ワーカーの女性から聞いた実話が出発点になったわけだが、それはかなり以前に聞いた話を思い出したということになる。
ジャン=ピエール・ダルデンヌ監督: どうしてなのか分からないが、女性の方たちはいつも、私たちが「仲違いをしないのか」という質問をされるね(笑)。つまり、男性同士がとても仲が良く、意見が一致しているという状況は、女性の方たちのお気に召さないようだ(笑)。「何かがおかしい。絶対に喧嘩している!」と思うのかな(笑)。姉妹はいつも、喧嘩をしているのかね?
議論をするというのは仕事のプロセスであって、監督にせよ演出にせよ、私たちは常に共同作業で仕事をしている。確かに、映画史上でも兄弟監督という例はあったが、監督も演出も全て二人でやるという例は少ないかもしれない。しかし映画史を見ると、脚本については複数の名前がクレジットされている場合はたくさんある。イタリア人たちはその点において最も進んでいて、脚本の執筆者として4人の名前をクレジットしている場合もままある。脚本執筆の際ということでご質問をいただいたが、脚本を書いている段階では、各登場人物の生きている軌跡を描き、その軌跡が次第に豊かになるように決めていかなくてはならない。だから私たちはその際にかなりの議論をするが、それはその人物の人生を豊かに描いていくための議論だ。二人で毎日議論をして、時間をかけて脚本を書いていく。脚本を可能な限り豊かなものにし、より良くしていくための議論にしたいと、常に考えている。これはとても不思議なことだが、例えばどちらか一人があるシーンに関して若干の疑いを抱いたとする。すると、共同作業を進めていく中で知らず知らずのうちに、もう一方がさらにその疑いをより深いものにしていくという傾向があるんだ。そんなこともあって、二人で脚本を書くのはとても時間がかかる作業だ。つまり、辿るべき道があり手掛かりがあるとしたら、それを行けるところまで突き詰めていく、私たちが可能な限り行けるところまで行こうとしているからこそ時間がかかるのだと思う。
リュック・ダルデンヌ監督: 私たち二人が完全に合意をして出来たシーンがある。そのシーンは映画の中には出てこない。それはクローディが死ぬ場面だ。クローディの死は見せないということは初めから決めていたんだ。
アルタ・ドブロシ: 実は、この役に決まってからシナリオを読んだの。そしてシナリオを読んだときにはすぐに魅了されて、話の中に入り込んでしまったわ。このストーリーはいろいろな展開があるので、読み進めるうちに次はどうなるのかと興味を引かれていった。もちろん、全体的にも素晴らしいということはあるけど、とにかく読みながら、早く次が知りたい、次はどうなるのだろうと思ったわ。それが一番惹かれた点ね。
ロルナは映画の初めのほうではほとんどロボットのようで、動きも機械的だし感情も見せないけど、徐々に優しさが出てくるわね。そういう変化にも惹かれたわ。それから、彼女は常に何か問題を抱えている。俳優としてそういう役を演じるのはとても面白いし楽しいものなの。つまり、具体的に演じることができるから。問題を解決するために必死で行動している様を演じるのは、役者として演じ甲斐があるわ。
アルタ・ドブロシ: 毎日撮影があったので、私にとっては演じやすい状況にあったと言えるわ。つまり、ロルナの世界の中にどっぷりと浸っていたので、彼女がどういう風に変化していったかということを考える余地すらなかったの。まさに、私はロルナの人生を生きていたから。朝から夜まで撮影があって、撮影が終わったらホテルに帰って寝るだけという毎日だった。後から映画を観て、そういう変化に気がついたくらい、私はロルナ自身を生きていたの。
それから、ロルナはたくさん動きのあった役なので、演技をする上で瞬間、瞬間に集中することができたわ。それが大きな助けにもなった。確かに、このストーリーは変化に富んでいて、クローディが死ぬシーンは私自身もすごく驚いたの。
ジャン=ピエール・ダルデンヌ監督: ロルナが本当に妊娠していたとしたら、それは安易な解決策になると私たちは思ったんだ。つまり、クローディが亡くなってからロルナが彼の子供を身ごもり、その子を育てることになれば、クローディに対する罪を償えることになる。それはあまりに安易な設定で論外だった。だから、贖罪の可能性はあるのだけど、それはあくまで彼女が想像している偽の子供でもって罪を償うという形のほうが興味深いと思った。つまり、彼女はこれまで嘘ばかりついてきて、偽の結婚をし、それが本当のことであるかのように他人に信じさせようとした。絶えず、嘘と真実の戯れの中で生きてきたんだ。今度は彼女自身が、その真実と嘘の戯れの中に嵌ってしまう、逆襲を受けてしまうというわけだ。また同時に、その偽の子供のおかげで、彼女は人間的な存在になっていく。そのほうが人物像としてとても面白いと思ったんだ。偽の子供ではあるが、偽の子供という形をとってクローディの亡霊が現れたと考えることができる。クローディのほうは死ぬ姿を映画の中で全く見せず、突然消えてしまう。彼がいなくなった欠落感があまりにも大きいのでロルナが想像した偽の子供という形で、クローディが私たちのところに戻ってくるというわけだ。
リュック・ダルデンヌ監督: 想像妊娠はまた、彼女の罪悪感の表れでもある。本当に子供が出来たらただそれだけの話になってしまうが、偽の子供を想像することで彼女は実際にお腹の痛みを感じる。それは彼女が罪悪感を持ち始めたということを示している。
アルタ・ドブロシ: 私は何とも言えないわ。シナリオにそう書いてあったのでその通りに演じただけだから。ただ、私自身は演じている間、自分は妊娠しているんだと信じて演じたわ。一瞬も疑わずに本当に妊娠しているつもりでやったの。
リュック・ダルデンヌ監督: アルタの魅力? 見たとおりだよ(笑)。私たちの魅力? 秘密だよ(笑)!
アルタ・ドブロシ: そう言われたら、私は何も話せないわ(笑)。
撮影現場の雰囲気がとてもアットホームで、自分自身の家でリラックスしているのと同じくらいくつろいでいられたの。リラックスできると、それだけ自由に人物を創造することもできると思う。ジャン=ピエールとリュック、それに他のスタッフの方たちも私を大変信頼してくださったし、私のほうも皆さんを信頼していた。そうしたお互いの信頼関係の中で、とてもリラックスして演じることができたの。ストレスを感じながら演技をすると感情が固まってしまってうまく演じられないので、リラックスできたのは本当に良かったわ。
リュック・ダルデンヌ監督: アルタは偉大な女優だよ。しかも、一緒に仕事がしやすい人だ。朝リハーサルを始めてもとても機嫌が良く、夜撮影を始めてもやっぱり機嫌が良い。昼も同じ。いつも気分が安定しているが、それは一緒に仕事をする上でとても重要なことだ。あと、私たちはかなりリハーサルを行う。長い間時間をかけて模索し深めていく。俳優のほうから提案してくることもある。良い提案だったら採用することもあるし、あまり良くなかったら採用しない。でも、アルタは自分のアイデアが採用されなかったからといって機嫌を悪くしたりすることはない。とにかく仕事が好きだということ、これは大きな長所だと言える。だから彼女は偉大な女優であるとともに仕事が大好きで、他の俳優や監督と一緒に自分の役柄を模索し深く追求していくことを好む。そうした点が彼女の大きな長所だと思ったね。
ジャン=ピエール・ダルデンヌ監督: 確かにジェレミーは14~15キロ減量した。彼にとっては大きなチャレンジだったね。ジェレミーは本当に素晴らしい俳優だ。彼とは何度も仕事をしているが、いつも撮影現場に創造性をもたらしてくれる。今回の場合も非常に重要だったのは、クローディは演じるのにとても難しい人物だったが、ジェレミーはその役柄にリアリティーを加えてくれたということだった。麻薬中毒患者を演じるのは簡単ではない。というのは、麻薬中毒患者というと紋切り型のイメージがあるからね。でもジェレミーは、そうしたステレオタイプの中に閉じ込めることなく、クローディの人間性を表現してくれた。しかも、大げさなことは全くせずに、わずかな演技でそれを表現することに成功している。それから私たち自身も驚いたことだが、クローディは観ているとちょっとイライラするような人物だったはずだが、撮影中に私たちが感じたのと同じ印象を語ってくださった観客の方たちもいて、つまり、クローディは人をいらだたせると同時に愛着を感じさせる人物にもなっていたと思うんだ。そう見えたのはひとえに、ジェレミー・レニエがそういう人物に創り上げることに成功したからだ。
ジャン=ピエール・ダルデンヌ監督: 今回は長い期間にわたるストーリーだが、それは私たちにとって初めてのことだった。これまでの映画ではストーリーはほんの数日間にわたるもので、こんな風に数ヵ月間にわたるストーリーはなかったからね。また、大人の女性が主人公であるのも初めてだった。しかも、彼女は中央ヨーロッパからの移民という設定だ。でも見るからに、彼女は移民であり、不幸な運命に見舞われていて、全ての不幸を背負っているという服装にしてはいけない。また、絶えず男性を誘惑することばかり考えているような服装であってもいけない。でも彼女は美人で、しかも魅力的でなければならない。こうした枠組みを設けた上で、衣装を選んでいった。結果として、彼女は何枚も重ね着をすることになる。季節も変わっていくし、そうした変化も衣装で感じさせる必要がある。その中でも彼女らしい色を入れなければいけない。それで、赤がいいということが段々に決まっていったんだ。私たちは衣装係と共にすごく長い時間をかけて衣装を選んでいく。だから、最初からずっと変わらず支配的な色が赤だと決めていたのか、衣装係と選んでいくうちに赤になったのか、はっきりとは覚えていないんだ。アルタに似合う色、彼女の肌にその色がどう映るかということも考えなければならなかったから、最初から赤と決めていたわけではなかった気がする。
リュック・ダルデンヌ監督: もちろん彼女の衣装は、ファビオやクローディやその他の人物との関係、あるいは使用している装置・背景との関係、灰色の空との関係も考慮し、決めなければならなかったということもある。
ジャン=ピエール・ダルデンヌ監督: サラエボまで行ってアルタのテストをしたんだが、その時彼女が着ていた服は薄紫色だった。それが顔に映って、顔が赤みがかったように見えてしまい、あの色は良くないと思った。だから、さまざまな条件、影響から色の選択というのは変わるものなんだ。目の色も考慮しなくてはいけない。随分時間がかかって決まった衣装の色だと思う。
アルタ・ドブロシ: 私はとにかく、切ってほしいと言われたので切らざるを得なかった(笑)。
リュック・ダルデンヌ監督: 私たちのほうから切るようにお願いしたんだ。それは彼女の顔を全部見せたかったからだ。
アルタ・ドブロシ: 最初は肩のところまで切ったんだけど、あともう少し……もう少し……と言われて段々短くなっていき、最後にはあの髪型になったの。あと、髪の色も変えたわ。
リュック・ダルデンヌ監督: とにかく、顔全体を見せたかった。顔に光が当たった時、優しさと同時に冷たさも感じさせる。そういうパラドックスをはっきりと出すためにも髪の毛を切ったほうがいいと思ったんだ。また、髪を切ったことによって、猪突猛進していくようなイメージを与えられたのではないかと思う。すなわち、髪の毛のような重たく邪魔になるようなものを全て取っ払ってしまうと、自分の信念を貫き目的に向かって真っ直ぐに突き進んでいくイメージを与えられる。だから、髪を短くしたことは、スピード感、疾走感、猪突猛進というイメージと少し関係があるんだ。競争でも先頭に立って一番にゴールインしたい女性(笑)、そういうシルエットにしたかった。もちろん、髪の毛をまとめてポニーテイルにする可能性もあったんだが、そうすると結んだ髪の尻尾の部分が揺れる。それが邪魔になると思った。あと、黒く染めてもらったのは、眉毛の色と同じにしてほしかったからだ。
アルタ・ドブロシ: これはあくまでも私個人の感じ方だけれど、あそこには希望があると思うの。私は演じながらその希望を感じたので。お腹の子供に「良く眠るのよ」と言う台詞があるけれど、彼女はあそこで心の平安、静謐さを初めて獲得したのだと思う。撮影中は私自身もそのような気持ちになったわ。ラスト・シーンについては、観る方たち一人ひとり解釈が異なっているので、それはとても面白いことね。いずれにせよ、私は演じている時も観た後でも、そこには彼女がようやく見つけた心の平安があると感じたわ。
リュック・ダルデンヌ監督: ロルナは変化したのだと思う。すなわち、もう後戻りはしない、ロルナは元の彼女には戻らないだろうということを感じさせるのではないだろうか。クローディが死んだ時、彼女は途方に暮れてしまう。動揺してどうしたらいいのか分からなくなってしまう。そして、ファビオが提供しようとした金を受け取らない。しかし、結局はその金をもらい、最初にそうであったようなロルナに戻ってしまう。ロボットみたいで、シニカルでいつも冷静で、自分の目的のためだけに動いている、そういう存在に戻ってしまうんだ。ただ、最後のシーンを見ると、ロルナはもう後戻りはしないということが分かる。ファビオもそれを理解したんだ。だから、彼はロルナをアルバニアに送り返そうとした。つまり、彼女は人間性を見出し、前よりも優しい存在になったわけだ。子供は実際には存在しないが、彼女がそうした優しさ、人間的な感情を見つけることに、想像上の子供が手を貸してくれたんだ。
ジャン=ピエール・ダルデンヌ監督: 私はちょっとあなたの感想に同感だ。暗澹たる気持ちにはならなかったけどね。監督の一人としてそんなことを言っていいのかどうか分からないが(笑)、ロルナがようやく心の平安を見出したのが存在しない子供の中でしかなかったわけだから。観る者の心を動揺させるような悲痛なものはあると思う。それは罪の意識ですらなく、存在しない子供を想像することでしか心の平安を得られなかったということは、観ていて動揺させられることではあるね。だからこそ、彼女はヒロインになり得たのかもしれないが。
ダルデンヌ兄弟監督は『ある子供』の時にも共同インタビューをさせていただいたが、今回は人数も少なめだったせいか、はたまたアルタもいたせいか、とてもリラックスして、映画の内容にもかかわらず時には笑いも交えながらの楽しいインタビューとなった。アルタは映画で観るよりもはるかに美しい女性で、さすが女優……と思わせられた。
インタビューが終わった後、監督たちから「あなたとカンヌで会った気がするが……」と言われビックリ。「いえ、カンヌには行っていません。以前に『ある子供』で来日された時もインタビューをさせていただきました」と言うと、「ああ、だから見覚えがあるのか」と。どこにでもある顔ゆえか、誰々と似ている、どこどこで見かけたと言われることはたまにあるが、ダルデンヌ兄弟監督に言われたのは光栄なことだった(苦笑)。
(文・写真:Maori Matsuura)
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