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2007-11-20 更新
1956年の革命世代の象徴ともいえる役を演じることが出来たので、とても光栄に思っている。
イヴァーン・フェニェー
1979年6月15日ブタペスト生まれ。子供の頃からあらゆるスポーツが得意だったが、伝統あるブタペストのカトナ・ヨージェフ劇場に参加、モリエールの『タルチェフ』、ドストエフスキーの『白痴』、シェークスピアの『真夏の夜の夢』などを演じる。映画での初の大役はペーテル・ゴタール監督の『Hungarian Beauty』(2003)。05年にはサム・メンデス監督作品『ジャーヘッド』に出演、ハリウッドでもその活動が期待されている。
配給:シネカノン
11月17日よりシネカノン有楽町2丁目ほか全国公開
冷戦まっただ中の1956年、民主化を求めて立ち上がった民衆を、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構軍が武力鎮圧したハンガリー動乱を舞台に、運命に翻弄された男女の悲劇を描いた『君の涙ドナウに流れ ハンガリー1956』が公開される。主役のハンガリー代表チームの水球選手である大学生を演じたのが、イヴァーン・フェニェー。『ジャーヘッド』など海外での活動にも積極的な俊英が、撮影の裏話や微妙なテーマを扱った苦労などについて語ってくれた。
大きな規模の映画で、しかも主演ということだったのでうれしかったね。そして1956年の革命世代の象徴とも言える役を演じることができたので、新しい世代のシンボルになることができ、とても光栄に思っているんだ。
2005年に『ジャーヘッド』のプレミアのため滞在していたロスで製作サイドから呼ばれ、脚本の第一稿を見せられたんだ。とても気に入りカルチの役をやりたいと思ったけど、その段階では実際に出演しカルチの役をやることができるのか分からなかった。この場では脚本とカルチの役についての意見を求められ、後日キャスティングされることが決まったんだ。その間、脚本は何回も書き直されてどんどん面白くなり、そういった変化にふれることができたこともうれしかったね。
女性監督の作品に出演するのは初めてではなかったけど、クリスティナ・ゴダ監督とはとても良い関係を持つことが出来たね。大好きな監督で、僕のことをとても良く理解してくださったんだ。監督としては非常に厳しいけど、とてもいい方で、僕がやりたいようにやらせてくれた。同じアイデアを共有することができ、同じステージに立ち、同じように物を見ることができたよ。男女の性別による違いは、特に感じることはなかったね。その人に才能があるかどうかの問題だし、その人が良い人間か悪い人間かによると思う。
似ている部分は多いと思う。まず家族思いであること、真っ直ぐな性格や情熱的な一面もかなり似ていると思うね。ひとつのゴール、目的を決めると、その達成のためにフェアプレイの範囲内で真っ直ぐに突き進む、そういった点も似ている。
ハンガリーでは、現在でも1956年の革命の季節について描くことは非常に微妙で繊細な問題なので、僕たちはこの映画でどのように描き、どのように伝えるか、とても気を遣ったんだ。それは、自分たちの国のディテールについてどのように伝えていくべきなのかということなので、撮影前2ヵ月の準備期間には、水球のトレーニングと監督とのリハーサルを続けたよ。自分自身の準備では、当時のことを取りあげた本をたくさん読み、ドキュメンタリー作品をたくさん見たね。これまで、この時期の出来事については学校で多少教えられる程度で、多く語られることはなかったんだ。僕の高校の授業でもディテールまで教えられる機会がなかったので、まず、両親や祖父母から当時の詳細な話を聞いた。ハンガリーでは、1989年に共産主義から民主主義へと移行したけど、それまでは56 年の革命について公に話すことが出来なかったので、曖昧なまま残されてきたのだと思う。
実際にそういった方たちと話す機会はなかったんだ。理由は、どこで誰に会えばいいのか分からなかったからね。だから、自分の両親と祖父母から話を聞いたわけだけど、当時子供だった両親はほとんど覚えていなかった。祖父母の話では、殺されるのが怖かったので、ずっと外出することを控えていたそうだよ。
2ヵ月の準備中には、1週間に4回~5回、1時間から1時間半のトレーニングを行った。オリンピックで2回優勝したハンガリーの代表チームからトレーニングを受けることができたので、とても良かったね。皆良い人たちで、今でも仲良くしているよ。撮影の時には、僕のせいではないけど、フェアではないやり方も少しあったんだ。水面下に置いたテーブルの上に立ち、ジャンプをする瞬間にそこから飛び上がるようなふりをして撮ったシーンがあって、僕自身は自分でやりたかったのでこのやり方では撮影しなかった。このシーンの撮影はクランクインしてから10日から12日の間に行ったんだけど、ウォーミングアップのような効果があり、僕自身スポーツをすることが好きなので、とても楽しい経験だったね。
彼女はとても素晴らしい女性だよ。16歳か17歳の頃からの知り合いで、同じドラマ・スタジオに通っていたんだ。彼女のことはよく知っているのでとてもやりやすかったし、彼女も同じだったと思う。いろいろなキャラクターについて率直に話し合うことができたし、とても良い関係を築けたよ。まさに、旧友と一緒にやるような感じだった。
確かにこの作品はターニング・ポイントになったし、僕にとってとても大きな存在だと思うよ。自分が出演でき、しかも主演であること、ハンガリー映画の大作に出演することができたのは、自分にとってとても良いことだと思う。その後、二つのハンガリー映画に出演することができたけど、ハンガリー映画の市場は大きくないので、今は外国に目を向け、積極的にインターナショナルな作品に出演したいと思っているんだ。来週の月曜からはロスでミーティングを行うけど、7月~8月にはロンドンでミーティングを重ねていたんだ。その結果が、次のインターナショナルな作品に繋がっていけば良いと思っているよ。
群衆のシーンの撮影では600人以上が集まりとてもエキサイティングだったけど、実際の映画ではCGを使って、もっと多くの人がいるように見せている。その場にいて楽しかったし、クローズ・アップになっても、周囲には多くの人がいるのでほとんど演技をする必要を感じないほどだったね。当時デモに参加した人たちと同じような感覚を共有できたし、とてもリアルな状況を作ってもらえたので、それを活かすことができた。1956年には生まれていないけど、当時の人たちの気分は、役者として比較的楽に想像することができたよ。
この映画の撮影の前には、自由について何も考えていなかったんだ。僕自身は1979年生まれなのでずっと平和に生きてきたし、戦争のニュースを見ても自分や家族には関係ないと思っていた。でも、この映画の撮影後には、どれだけ平和が大切なのか考えるようになったよ。日本も同じだと思うけど、平和が当たり前になっている一方で、今でも世界のあちらこちらで戦争が続いている。平和に生きている人たちは戦争や抑圧に対して意志を表明する、自由であることがどれだけ大切なのか訴える必要があると思う。そして、皆が立場や考え方が違ういろいろな人たちを理解し、お互いを受け入れるべきだ。平和が当たり前な中で生きているからこそ、健康であることと同じようにそういったことが重要だと思うよ。
日露戦争のことは全く知らなかった。多くのハンガリーの人も知らないと思う。僕個人としては、日本に来ることができたのは素晴らしい体験だし、とてもうれしいよ。素晴らしい時間を過ごすことができ、招聘していただきありがたく思っているんだ。日本文化の大ファンで、瞑想することが好きだし、本物の神社や仏閣にも触れてみたいと思うよ。食べ物も好きだし、寿司は中毒だと思えるほどなんだ(笑)。8歳の頃から9年間、柔道をやっていたので、撮影中に集中することもその経験から学ぶことができたと思っている。これが最初の日本との関わりなんだ。今回の来日は僕にとってのアジア初体験だけど、もし以前に「どこに行きたい?」と聞かれたら、「日本に行きたい!」と答えただろうね。
本当に東京の街が好きになったので、実は、英語の作品を東京で撮影したいとクリスティナ・ゴダ監督と話し合ったんだ。ハリウッドでの撮影も楽しかったので、世界中を回りながら、ハリウッド、ドイツ、オーストラリア、そしてハンガリーでまた1本撮るといったように撮影ができればいいと思っている。僕の故郷はハンガリーだし、自分がハンガリー人であることも忘れないと思うけど、インターナショナルにどんどん国境を越えて活動していきたいと思っているんだ。僕にとって国境は必要ない。世界中を廻り、自分のやるべき仕事をすることが大切だと思っているよ。
歴史的背景を少しでも知っていれば、単なるラブ・ストーリーに収まらない民族の悲劇が伝わってくる感動作。時の流れの中でもてあそばれた人たちの悲しみが伝わってくる。イヴァーン・フェニェーは物心ついた頃には既に自由化後という世代、歴史は流れ、冷戦も完全に過去の存在となったようだ。
(文・写真:Kei Hirai)
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