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2007-10-16 更新
少年の波乱に満ちた苦難の旅は、母親への回帰、“帰郷する放蕩息子”の原型神話だといえる
アンドレイ・クラフチューク監督
1962年にレニングラード(現サンクトペテルブルグ)で生まれる。母は医師で、父は海軍の機関兵だった。レニングラード国立大学で数学と力学の学位を修得し、1984年に優秀な成績で卒業する。1996年には、映画とドキュメンタリー製作を学んだサンクトペテルブルグ映画テレビ大学を卒業する。その直後から、脚本家で監督のユーリイ・フェティングとたびたびコンビを組み、ドキュメンタリーやテレビ・ドラマの監督を始める。本作で劇場映画の監督デビューを果たす。
現在は、ボリシェヴィキ政府とのロシア内戦で、白軍の指揮を執ったアレクサンドル・コルチャーク提督(1873~1920)を描いた映画に取り組んでいる。
配給:アスミック・エース
10月27日(土)より、Bunkamura ル・シネマほか全国順次ロードショー
(C) 2004 Filmofond Lenfilm Studio
2005年第55回ベルリン国際映画祭少年映画部門でグランプリに輝いた、実話から生まれた物語『この道は母へとつづく』。実の母親に会いたい一心で孤児院を脱走し、数々の困難に遭いながらも、たった独りで道を切り開いていく6歳の少年の姿を描いた、ロシアの新鋭アンドレイ・クラフチューク監督が、映画にまつわるさまざまな裏話を語ってくれた。
1999年、銀行や金融の破綻により、ロシアの大都会の通りは、貧しいホームレスの子供たちであふれることになった。子供たちは車を洗ったり、新聞を売ったり、ガソリンを入れたり、生き残るために何でもやっていたね。子供は無視され、忘れられると、速く成長するものだ。無責任が社会のルールになる頃には、道徳観も変わる。大人の間ではどのような状況であれ、まだある種の道徳規制やしきたりが残っているものだが、子供たちにはその線引きがない。子供たちは自分たちで法律や階層を作り、独自の富の分配方法を考え出す。ある意味、非常に成長は速いが、反面、十分に成熟しているとも言えず、妙な宙ぶらりん状態なんだ。
ずっと昔から、深く悩める若者の映画を撮りたいと思っていた。このアイデアを形にできる物語をいろいろ探していたんだ。チャールズ・ディケンズの『デヴィッド・コパーフィールド』の筋に沿って、ぼんやりアイデアを巡らせてみたりもしたよ。アンドレイ・ロマノフと仕事をするようになって、彼が孤児院に関する実話をいくつも集めていることを知ったんだ。アンドレイは普通の人から話を引き出すのがものすごく上手でね。全く初対面の人でも彼には心を開き、自分の人生を洗いざらいさらけ出してしまうんだ。なかには真実ではない話もあるけどね。そんなアンドレイから「コムソモーリスカヤ・プラウダ」新聞【訳註:高校生・大学生の世代を読者層にした全国紙】に載っていたある孤児院の少年の記事について聞いたんだよ。その少年は記録に載っている母親の住所を読みたいがためだけに、独学で文字を学び、孤児院から逃げ出して、やっとの思いで母親を見つけ出したということだ。この話を聞いてすぐに、格好の主人公像が思い浮かんだ。本来なら抽象的な社会状況をはっきり浮き彫りにできるイメージがそこにあったんだ。映画の主人公の行動にはいくらかバカげている感じが必要だと思っていた。主人公の少年は理性ではなく心の叫びに突き動かされ、妥協の余地などなく、どうしてもそうするしかなくて行動するのだから。ほとんどの人間とは違い、ただ無難に生き残りたいわけではない。この少年こそ、カミュやサルトルの作品に出てくるような、実存主義的な意味で本物のヒーローなんだ。
学生時代、ロシアの地元の孤児院を題材に短編を撮ったことがあった。このかなり異質の環境は感情に訴えるものがあり、記憶にずっと引っかかっていた。今回の物語をどうやったら正しく伝えられるか。その点を重視して、実際に田舎にある特に荒れた孤児院で撮影することにしたんだ。まずは子供たちを十二分に観察した。子供たちをこの物語の筋に押し込めたり、私たちの考えに従わせたりするのではなく、子供たちがいつも体験し、やっていることがそのままできるように心がけたんだ。
ロシアの都会の孤児院では、大人の訪問客があるたびに、もしかしたらこの人が養子にもらってくれるかも、という目で見るものだ。子供たちはすぐにその大人に飛びつき、離れない。1人だけを残して、全員がその場から控えるように言われると、残りの者はその子が養子に選ばれたのだと悟る。また大人たちに完全に失望させられている孤児院では、子供たちは新しい大人を見ても、もう期待することをしない。最終的に私たちはレニングラード州のフィンランドとの国境からさほど離れていないヴィボルグ近くのレソゴルスキー孤児院を選んだ。荒れ果てたと感じる人もいて当然なくらい地味な佇まいにあふれるロシアの田舎が必要だったんだ。高齢になって、生まれ故郷であるベラルーシのヴィテブスクを訪ねたマルク・シャガールの逸話を思い出すね。地元の人はシャガールにあれこれ新しい建物を見せようとしたが、シャガールは明らかに退屈そうで、風雨にさらされ、ひどく反り返ったフェンスを見つけたときだけ生き生きしていたそうだよ。シャガールに言わせると、それほど美しいものは他にはないようだ。廃墟や瓦礫はその場所の歴史や運命を物語っているからね。
非常に良くしてもらった。私たちがお会いした人は皆協力的だったよ。こちらとしても非難したり、問題点をいわれもなく取り上げたりするつもりはなかったんだ。しかし上映後、市当局との関係にいくらか緊張状態を感じた。当局としては子供たちの“自治”システムや、酒浸りに描かれている孤児院長や、大胆にも役人を買収している仲介人の女などは明らかに気に入らなかったようだ。それでも当局との関係は依然として建設的だけどね。
実際に養子縁組の仲介をしている女性に会い、この「斡旋」ビジネスについてたっぷり聞かせてもらった。この女性はロシアの子供をイタリアの家庭の養子にする仕事をしていて、そのうち実の両親が親権を放棄する文書を偽造し始めるようになったんだ。ただそのスキャンダルが明るみに出て、わだかまりを残したまま仲介業は辞めたんだが、何とかその全貌を私に語ってくれた。その女性から教わったことはいくつか映画に盛り込まれている。劇中マダムを演じるマリア・クズネツォヴァは、実際の彼女によく似ているんだ。一般に養子縁組の仲介は、独りでやるには非常に大変な仕事だ。養子縁組は裁判所を通さなければならなく、事務処理が莫大にある。煩雑な手続きが非常に面倒で、親戚との裁判にも何度も立ち会うことになる。この親戚というのが酒飲みで喧嘩早い場合が多いため、映画にもあるように護衛として屈強な男を引き連れている必要がある。マダムは不道徳な人間に見えるかもしれないが、決して悪者ではないんだ。心から子供のためを思ってしているんだよ。
同じような事件は起きている。契約上、養子を受ける親は、ロシアの仲介人に何万ドルに上ることも多い大金を払うが、もし子供が逃げたり、養子を拒んだりしたら、仲介業者が金銭的に責任を負うことになる。返金するか、養親が納得のいく子供を見つけるかしなければならないんだ。
本作のキャスティングには時間がかかった。ラジオやテレビで宣伝し、助手が学校や孤児院を見て回ったんだ。面接した子は何百人にも上る。コーリャは最初の段階から目立っていたよ。今回のプロダクション・デザイナーが、短編に出ているコーリャを見つけ、「あの子こそピッタリだ」と教えてくれたんだ。コーリャの魅力は一目瞭然だったが、異様に緊張していて、話す声も低く、1歩足を踏み出すのもおぼつかなく、台詞も覚えられなかった。私たちは他の候補者を当たったが、結局はいつもコーリャに戻っていったんだ。興味深い子は何人もいたが、いつでもコーリャにはある何かが欠けていた。結局危険を覚悟でコーリャを選び、撮影を始めたんだが、最初のラッシュを見て、自分の選択は間違えてなかったと確信したよ。
2人の少女を除き、ほとんどの孤児は素人で、みんな孤児院の子供だ。多くは実際に私たちが撮影に使ったレソゴルスキー孤児院の子供で、年上の子供たちはヴィボルグから連れてきたほか、後はサンクトペテルブルグのいくつかの孤児院の子供も参加した。孤児院の日々の生活を中断させることについては、孤児院の規律・クラス・休憩・起床時間はいじらないように守った。
創作活動や芸術の世界で働く人たちに関わることは、子供たちには重要な良い体験になったはずだ。私たちが敬意をもって接したことが大きな印象を与えたようだよ。なかには大きく触発されて、生まれ変わることを決心した子供もいる。残念ながら一度人格が十分に形成されてしまった後では、たった一度の努力だけでがらりと変わることは難しいけどね。
子供を取り上げたロシア映画は二度と見ないよう、はっきりと心に誓ったんだ。現代の物語をドキュメンタリーに近い形で語りたかったからね。
その議論は少し映画からずれてしまうね。ワーニャはロシアの生活かイタリアの生活かで選んだのではない。ワーニャは生みの母を見つけることを選んだんだ。この少年の波乱に満ちた苦難の旅は、母親への回帰、“帰郷する放蕩息子”の原型神話だといえる。本作の元ネタとなった新聞記事によると、やっと母親を見つけた息子に母親は訊いたそうだ。「それはともかく、お前は私の何の役に立つの?」。すると息子は「今から家に男がいるんだよ」と答えたんだ。こういう少年なら倒れたフェンスの一つや二つくらい難なく直すだろう。
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