2022-04-26 更新
加藤タキ
死後、30年近くを経ていまなお世界中で愛され続ける偉大なる映画スター、オードリー・ヘプバーンの真の姿に迫るドキュメンタリー映画『オードリー・ヘプバーン』が5月6日(金)より公開となる。
4月24日(日)、都内で試写会が行なわれ、上映後のトークイベントに生前のオードリーと深い親交があったコーディネーターの加藤タキが出席。オードリーとのさまざまなエピソードや知られざる素顔について語った。加藤は20年以上にわたって公私ともにオードリーと親交を結んできたが、そんな彼女もこのドキュメンタリー映画を観て「『そういうことだったのか……。あぁ、なるほど』と納得したことが多々ありました」と初めて知ることが多かったと明かす。
「これまで疑問に思っていたことで、(映画を観て)一番納得がいったのが、彼女の『愛』に対する考え方。(オードリーは)慈愛に満ちていると言うけど、どうして彼女は求める愛ではなく、与える愛を選んだのか? このドキュメンタリーを観て『なるほど』と思いました」とうなずいた。
加藤が初めてオードリーと顔を合わせたのは、ウィッグのCMのコーディネーターとしてオードリーのローマの自宅を訪ねた51年前の1971年で、加藤は当時26歳だった。「ツタの生えたレンガ造りのアパートメントで、大きな木の扉をノックし、メイドさんがいらっしゃるかと思ったら、オードリーさん本人がワインカラーのニットのワンピース姿で『ウェルカム!』と迎えてくださいました。何にびっくりしたって、15人ほどのスタッフを連れて伺ったのですが、一人ひとり自己紹介したら、次の瞬間からちゃんと全員の名前を覚えて呼んでくださるんです。みんな『オードリーさんのためなら何でもやろう!』と思わせてくれました」と驚きのエピソードを明かす。
さらに「ひと段落してお茶を……となった時、銀のトレイに乗った銀のポットでコーヒーと紅茶を、レモンもミルクも全部自分で用意してくださるんです。一人ひとりに『コーヒー? ティー?』と聞いてくださって、そんなオードリーさんにみんな吸い込まれちゃうんです!」と世界的大スターでありながら、スタッフひとりずつに細やかな気遣いをする女性だったと語る。仕事の場に限らず、普段からオードリーは「ごく普通の方。ナチュラルでした」と明かす加藤。2回目のCM撮影で、パリを訪れた際も「(パリの常宿に)朝の7時半に迎えに行くんですが、7時29分に下から電話をすると、7時30分20秒にはおひとりで、ルイ・ヴィトンのバッグを持って降りてらっしゃるんです。『お持ちしますよ』と言っても、『これは自分の荷物だから』と。本当に自然体で偉ぶることがなくて、それはこのドキュメンタリーでも出ていたと思います」と語った。ファッションに関しても「普段からとてもシンプルでした」とのこと。
ある時、オードリーから「相談に乗ってほしい」と言われ、何かと思ったら「寒波が来るので、初めて毛皮を買うんだけど、何を買っていいか分からない」とアドバイスを求められたという。オードリーは普段から毛皮はおろか「カシミヤでもないウールのコートを着ていて、『これが居心地が良いし、私には似合うから。毛皮は似合わない』とおっしゃっていました」と明かし、加藤が映画の中で彼女が身に着けていた毛皮やアクセサリーがとても似合っていたと本人に伝えると「タキ、あなたは勘違いしてるわ。あれは映画の中のオードリー・ヘプバーンが演じているだけで、素のオードリー・ヘプバーンには居心地が悪いし似合わないわ」と言われたという。
一方の加藤は、当時からたくさんのアクセサリーを身に着けていたが、オードリーはそれに対して「タキはいっぱい着けるのが良く似合うわ。THAT IS YOU.(それがあなたなのよ)」と言ってくれたという。タキさんは「自身の価値観を他人に押し付けるようなことはせず、『自分は自分。他人は他人。成熟した人間なら分かるわよね?』という方でした」とふり返る。
また、プライベートでは愛に恵まれなかったと評されることが多い、オードリーの恋愛に対する考えに話が及ぶと、加藤はパリでの撮影時の彼女との印象深いエピソードを披露。当時、オードリーは2度の結婚と離婚を経て、ロバート・ウォルダース氏と付き合っていたが、彼が席を外している時に加藤はオードリーに「どういう男性が好きなの?」と尋ねたという。「すぐに返ってきたのが『A strong man(強い男)』という答えでした。思わず『え?』という顔をすると、彼女はウインクしながら『いま、マッチョな男を想像した(笑)? 違うわ。強い人というのは、挫折を知っている人のこと。挫折を味わった人は、それが強さと優しさに変わっていくのよ。それが“Strong man”よ』とおっしゃいました」と明かした。タキさんは、オードリーの恋愛観について「父親から与えられなかった愛が、彼女の挫折感、トラウマになっていたことが、この映画を観て理解できました。愛に恵まれなかった人は、世の中に対し斜に構えて素直になれないことが多いですが、オードリーさんはこの映画の最初のほうで『愛を受け入れるか、拒絶するかの人生しかない』ということを本で読んだと言っていました。彼女は受け入れ、そうすることによって、求めても、求めても、与えられなかった愛を“与える愛”に進化させていったんだと、私は思いました」としみじみと語っていた。
また、オードリーは晩年の人生をユニセフ親善大使の活動に捧げ、世界中の貧困地域を訪れたが、タキさんはオードリーが口にした忘れられない2つの言葉を明かしてくれた。ひとつは、世界的な女優である自身がユニセフ大使として募金活動に奔走すると、多くのお金が集まることについて口にした「私はそのために女優をやってきた気がする」という言葉。もうひとつは、バブル期に来日した際にホテルでビュッフェ形式で行われた歓迎パーティーでの言葉で、オードリーはパーティ会場の隅で、人々が食事を皿に盛る様子を見ながら、寂しそうな眼差しで「タキ、日本だけじゃなく、アメリカでもヨーロッパでも、みんな自分が取った食事を食べきらないうちに皿を置いて、次の食事を取りに行ってるわ。もったいない。私は残飯でいいから、全てを引っさらって、このまま飛行機でバングラディシュに行きたい」と語ったという。少し前に大使として訪れたバングラディシュで、オードリーは、ある子どもから、配給で配られた1個のコッペパンの半分を「はい」と差し出されたそうで「それを手にしたとき、私はこんな大きな愛情をもらっているんだと、それが大きな喜びになった」と語っていたという。
この日のトークでは、加藤がオードリーから受け取ったという直筆の手紙も披露。亡くなる前年の1992年の8月の日付の手紙には、グラフィックデザインを学ぶ次男のために、日本のデザインの本を送ってくれた加藤へのお礼や、おかげで次男が無事に卒業できたという報告、さらに「息子はちゃんとあなたにお礼状を書いたかしら?」という“母親”の顔をのぞかせる言葉がつづられていたという。その頃、彼女身体は既に病魔に蝕まれていたが、加藤は「9月に入ってお電話をいただいて『ようやくユニセフの1年の予定が終わって、帰ってきたばかりで、1ヵ月お休みだけど、10月からまた来年のユニセフの活動の計画を立てるわ』と言っていて、ひと言も『具合が悪い』といったことがおっしゃいませんでした」と述懐。
その後、加藤は年末にクリスマス・カードを送ったが、例年ならすぐにお礼の連絡をくれるのに、何の音沙汰もなかったことからおかしいと思って電話をし、そこで彼女がアメリカにいることを知り、息子と連絡を取って、病気であることを知らされたという。それでも、加藤はそこまで症状が重いとは思ってなかったという。1993年1月20日にオードリーは63歳でこの世を去ったが、加藤は「21日の朝にラジオをつけたら、彼女の曲が掛かっていて、(死を知り)本当にびっくりしました……。早すぎて……。心を痛めるというのは、ストレスになり、病を引き起こすことになるんですね。よく(恋人の)ロバートさんが『休ませなきゃ』と言ってましたが、そういうことだったんですね。いま、ご存命だったら、ウクライナのことを彼女はどう感じて、どういう行動をとっていらしたかな?と思います」と声を詰まらせながら、語った。
トークの最後に加藤は、オードリーが無類の親日家だったことにも言及。欧米のスターを迎える際にも控えめな態度だと聞いていた日本のファンが、熱狂的に出迎えてくれたことを非常に喜んでいたそうで、「ある時、彼女は私に『タキ、私は前世で日本人だったかも。それくらい、日本が好き』と言っていました」と語り、死後30年近くが経ったいまでも映画雑誌などの好きな女優ランキングでオードリーが上位にランクインされることについて「日本の皆さんは、どこかで彼女の本質を見抜いているんだと思います。いまでも、こうして彼女の映画に皆さんが集まってくれることを、とってもお喜びになると思います」と語っていた。
映画「オードリー・ヘプバーン」は5月6日(金)よりロードショー。
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