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2018-06-04 更新
ミシェル・フランコ監督
ミシェル・フランコ監督
1979年メキシコシティ生まれ。脚本家、監督、プロデューサーとして活躍。
監督作として、第68回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で脚本賞を受賞した『或る終焉』(15)、第65回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門でグランプリを受賞した『父の秘密』(12)がある。
プロデュース作として、第65回ベルリン国際映画祭パノラマ部門で初監督作品賞を受賞したガブリエル・リプステイン監督の『600マイルズ』(15)、第72回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞したロレンソ・ビガス監督の『彼方から』(15)などがある。
自身の製作会社であるLucía Filmsで現在も複数の映画企画を進めている。
第70回カンヌ国際映画祭、ある視点部門審査員賞を受賞、『父の秘密』(12)、『或る終焉』(15)のメキシコの気鋭ミシェル・フランコの最新作『母という名の女』が、6月16日(土)よりユーロスペースほか全国順次ロードショーとなる。この度、ミシェル・フランコ監督のオフィシャルインタビューが到着した。
数年前、私はある妊娠したティーンエイジの女の子を見かけました。それはメキシコではとても一般的な風景です。ただ、その女の子に私は強い興味を持ち、どのようにして彼女が自分自身をその状況に陥らせたのか、彼女の赤ん坊に何が起きるのか、彼女自身はどうなるのか……などといったことを考えました。彼女は満たされているようにも苦悩しているようにも見え、未来への希望に溢れていながら、同時に不安に押しつぶされそうになっている……。あの幼い妊婦が見せたそんな心のグラデーションが、この物語の起源です。
加えて、私は非常に多くの男女が彼らの子どもたちとの係わり合いの中で、いつの間にか互いに対抗心を抱いてしまうという点に心魅かれています。もう自分たちが20歳だった時代はとっくに過ぎたというのに、それが受け入れられない。家庭内のパワーバランスが移り変わっていく過程でのそんな拒否反応が、混沌を引き起こすのです。これら2つの要素から、この映画は生まれました。
2012年に祖母の家を訪れたときに祖母が脳梗塞に見舞われ、やってきた看護師に「家族の方は部屋の外に出てください」と言われました。言葉を発することができないから祖母が望んでいることなのかは分からなかったけれど、仕方がないので父親や兄弟と部屋の外に出て待ちました。そして、このことを映画にしたいとその時に思いました。そこから物語にするまでに2年かかり、更にそこから脚本作業を始めて1年半くらい、だからいわゆる脚本という実際にパソコンと向き合う作業までには頭の中で相当長い間、考えたり、関連本を読んだりという準備の時間があります。この脚本の段階が孤独で苦しく、私にとって一番辛い作業です。
肝心なのは出演者たちに完全な信頼を置き、彼らに役に入り込む十分な時間ときっかけを与えることです。例えば、エマ、バレリア、そしてホアナはバジャルタにある家に撮影スタッフや私の干渉なしで1週間共に過ごし、互いのことをわかり合い絆を深めました。撮影に入ればどんな時でも彼らのほうが私なんかよりも、それぞれが演じるキャラクターやそのバックグラウンドを把握していて、驚くことに各々のアイデンティティーの在り処を私に説明してくれるのです。画面上での化学反応はその1週間の間に培われたもので、そして撮影を完全に順撮りで進めていくことでそれはより強化されました。この手法は、特に説明的でない作品の場合において俳優たちに有効のようです。
4つもの視点を積み重ねていくのは非常に複雑でした。以前の作品では私は常に1つか2つの主要な視点に限定して制作していましたから。それぞれのキャラクターに主張を持たせつつ、そのバランスを保つよう編集するのは大変でした。カメラワークもまた、私の慣れ親しんだ撮り方よりも難しく、またそれが面白くもありました。物語の時系列順に撮影することや現場で編集することは、たくさんのテイクを重ねていくことを、また同時に物語に様々な角度から、時間をかけてアプローチしていくことを可能にしました。
撮影監督のイヴ・カープとは良い共犯関係を築き、どうすれば作品を一番いい形で撮れるかという話をしながら、私たちは現場でのアドリブと徹底した下準備を上手く掛け合わせて撮影できました。ほとんどフィルターを使用せず、撮影もとても早く、照明の数も少ないのだけれど、常に照明撮影以上のコラボレーターとして作品が何についてのものなのか、とてもよく考えてくれています。キャラクターを奥深いところまで掘り下げ、映像的にも興味深いものを作っていきたいと考え、私たちはひとつひとつの場面をどう撮るかをいつも前もって打ち合わせていましたが、それはカメラが回り出した途端、いつも覆されるのでした。そんな時もその場で役者に合わせて適応してくれました。
エマのキャスティングは、外国から来たという設定にしたくて、スペイン人の母親というキャラクターを探していたときに『ジュリエッタ』を観て「あ! アブリルにいいかも!」と思いつきました。エマは知性と感性の両方で演技をしています。つまり、本能的に反応するだけでなく、とても理性的に物事を捉えているのです。
アブリルの設定はつくっていません。唯一決めていたのが、スペインから来た外国人であるということのみ。ただそれも、外からいきなりやって来る感じや不在感が強められるからという理由でしかありません。時々役者から、「これはどういうこと? この背景は?」と聞かれるけど、「それは自分で考えて決めてくれ、逆にその考えを教えて欲しい」といつも答えています。すでに脚本に2年以上かけているから、ここからの作品作りは君たちの意見を反映させて一緒に作っていきたい、と話します。私は監督というものは独裁者であるべきではないと考えています。
私はアブリルという存在を善悪で裁くような視点では描いていません。現代社会では良い母親であることをプレッシャーとして女性に押し付けていると思います。良き母であれ、良質な仕事を持て、子供のために何かあれば常に近くにいろ、夫のために常に官能的であれ、家族のために常に美しく装え、これらすべてを求められているのが現代女性で、多くのプレッシャーをかけられ失敗してしまうことも当然あると思います。しかし一度失敗した女性に対して、現代社会はすぐにレッテルを貼ってしまう。それを集約した結果がアブリルのような女性です。ある意味、現代社会を体現しているキャラクターなのです。
バレリアは完全に自然体で、私の手に全てをゆだねてくれました。彼女には天性の才能があり、怖いものなしです。ごく自然に演技に入るのです。彼女の表現はあの年代の若い女性にしては非常に複雑なものがあって、その心の中はまるで迷路のようです。彼女と作業しながら最後の表情をどうしていくかというのが見えてきました。逆に、彼女の表情や変遷が上手くいっていなかったら映画として成り立っていなかったと思います。というのも、映画の作品としての感覚というのは、バレリアからもたらされるものだからです。
クララというキャラクターは、アブリルの背景(バックグラウンド)を考えたときに鍵となる存在です。母親と過ごした時間がアブリルより長いからこそ、クララはちょっとぽっちゃりとしていて、自尊心も低く、妹があんなことをしていても自分はやりたいことをできず、生きたいように人生を過ごせていない。逆に母親と過ごした時間の短い妹のバレリアのほうが自由に振る舞っている。それはきっと、姉のクララほど母に苦しめられていないからだと思います。
劇中で移動するのが好き、ということが一つあります。あと車内というのは親密な空間なので、それを好んでいるというのもあります。車内の設定だと、セリフがないような場面であっても、観客がキャラクターと密着してより親密な空間に身を置くことができるからです。キャラクターたち自身が自分の人生を変えるべく、また自分の人生を再訪するべく移動していく物語だと思うので、移動するということは重要だと思っています。
女性というものが、いかにいろいろなものであり得るかというのを示唆する聡明なタイトルだと思います。女性というのは母であるべきだという思い込みがまだまだ根強いけれど、別に女性は必ずしも全員が母に向いているとは限らないし、なれるものでもない。母になるということは深い理解や努力がないとなれないし、ただ漫然としてなれるわけではないから、そういったことを上手く示唆した良いタイトルだと思いました。
私は映画学校には通っていません。メキシコ映画は質・量・多様性の面でかなりの発展を遂げ、すでに名を成した監督から新人まで、それぞれ思い思いのものを撮るべく名乗りを上げる声が重なり合っている状態ですが、私が高校を卒業した当初は、メキシコで一年に撮られる映画は7本しかなく、映画学校も2つしかありませんでした。そういう状況下だったので、映画ではなくあえて他のものをと思いコミュニケーションを専攻しました。しかし映画に対する愛が消えずNYの映画関係のワークショップに参加して、短編作品を撮り、独学で監督になりました。
ひとつのテーマがあったとしたら、それに真っ向から対抗するような要素も入れ、同時に複数のものを作品に入れたいと思っています。単純なストーリーではなく、それ以上のものになるよう目指しています。私は今のところキャラクターの心理を掘り下げていくような映画を作っているので、そういった物語には単純なストーリーは合わないのではないかとも思っています。
私が好きな映画作家は探求心を失わず、失敗を恐れず、そして形式に決して頼ることなく、安全圏で作品作りすることを良しとしない、そんな人たちです。私も常に限界を超えていき、監督という立場からも予測不能な作品を作っていきたいし、誠実でありたいと思っています。多くの映画監督が、例えば一度うまくいった設定を、これだったら観客に響くから、分かりやすいからという理由で繰り返し使うことがあるけれども、それは怠けだと思います。もちろん観客に響く作品にはしたい、繋がりたいとは思っているけれど、すごく誠実なやり方で繋がりたいと思っています。
観客のことをリスペクトしているということがモットーかもしれません。リスペクトしているからこそ挑戦的な作品を作りたいと思えるし、型にはまるような映画作りをしてしまったら、もう映画は作らないというくらいの覚悟で作っています。
『或る終焉』が完成して以来、ティム・ロスと私はもう1本一緒に撮ろうと話していました。私たちはそれをとても楽しみにしています。今のところ、私たちは一緒に引き籠って執筆にあたっている段階です。ティムともう一度仕事ができるというのは限りない喜びです。まだ執筆中で詳しくは言えないけれど、これまでよりもより多くの視点が描かれ、物語の時間の経過も一律ではなく、あちこちに飛ぶような構造で、私たちの国の社会における格差といったものを描いたようなものにしたいと思っています。野心作なので期待していてください。
(オフィシャル素材提供)
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