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2017-11-08 更新
ジャック・ドワイヨン監督
ジャック・ドワイヨン監督
1944年フランス、パリ生まれ。
日本では『ポネット』(96)が大ヒットした名匠。初長編『頭の中に指』(74)でフランソワ・トリュフォーから賛辞を受け、『あばずれ女』(79)でカンヌ国際映画祭ヤング・シネマ賞を受賞。
『放蕩娘』(81)で主演のジェーン・バーキンと結婚、ルー・ドワイヨンをもうけた。
その他の代表作に『小さな赤いビー玉』(75)、『ラ・ピラート』(84)、『ピストルと少年』(90)、『ラブバトル』(13)。
《考える人》《地獄の門》で名高い“近代彫刻の父”オーギュスト・ロダン。没後100年を記念し、パリ・ロダン美術館の全面協力のもと、『ポネット』の名匠ジャック・ドワイヨンが、カミーユ・クローデルと出会ってからの愛と苦悩に満ちた彼の半生を描いた『ロダン カミーユと永遠のアトリエ』が、11月11日(土)より全国公開となる。この度、ジャック・ドワイヨン監督のインタビューが到着した。
ロダンについてのドキュメンタリー映画を撮らないかという話をもらい、ちょうど新作の予定もなかったので引き受けました。ところが、なにを思ったのか、すぐ台詞を書き出していました。ひとつのシーンを書き上げると、すぐに次々とシーンが書き上がってゆき、20、30とシーンが出来上がっていったのです。それらはもちろん劇映画のもので、依頼とはまったく異なった方向へと転がり出していました。結局、ドキュメンタリー映画をつくるという依頼は辞退し、そのままシナリオを書き続けていったというわけです。
実は、ロダンはその作品ほどにその人となりについて知られていません。ロダンについての資料を読めば読むほど、よく分からなくなってくるのです。ロダンにはふたつの側面、ふたりのロダンがいたということではないかと思います。なにか自分の意見を言わなければいけないようなとき、困ってしまったような仕草をしたというようなことが書かれている資料が存在する一方、晩年、ムドンに家を構えるようになると、パリ中の人々がロダンのもとに招かれ、出かけました。その際には温かいもてなしとおしゃべりで人々を楽しませたと言われています。
つまり、一方のロダンは、自分の領域、つまり彫刻や絵画についてにしか興味がなく、それについてしか話さない人物。もうひとりは社交的な人物としてロダンです。こうした資料上の不確かさもあり、私はロダンについて自由に書き、描くことができました。なかでも、バルザック像をつくる際に妊娠した女性をモデルにするシーンがありますが、なにかの本で読み、そのように描いたものです。ロダン美術館の学芸員は、そんなことはあり得ないと言ってきました。けれども、映画作家として、妊娠7ヵ月の女性をバルザック像のモデルにするというのは完璧だと思いました。
脚本段階からヴァンサンを想定して書いていました。“彼しかいない”と思っていたので、もし断られたらどうしようか……と。彼は“言葉”ではなく“沈黙”で語ることができる数少ない役者です。理由は、彼が役者だから。それほど台詞に自信がない、というところがかえって良く、アトリエのなか以外では生きられないロダンを演じるには、口数少なく演じることができる俳優であることが必要であり、そのなかでもヴァンサンがもっともふさわしい存在だと思ったのです。脚本を読んだ彼はいたく感銘を受け、私自身に代わって自らプロデューサーや配給を探してくれました。彼なしに本作が日の目を見ることはなかったでしょう。
一方、イジアですが、カミーユがロダンと別れたのは30歳よりも前だという史実を受け、イザベル・アジャーニよりも若い女優を探していました。彼女の父親であるジャックには、以前、出演してもらったこともあり、縁のようなものを感じています。彼の才能を受け継ぐイジアもまた歌う姿が素晴らしいとの評判を聞いていました。劇中、カミーユが神経症を患っていることを打ち出しすぎないようにしたかったので、言葉にあふれ、快活で、素直な人柄、生命力あふれるカミーユのイメージにぴったりだと感じたのです。
『地獄の門』は1890年頃に完成した作品ですが、小さな人物像がたくさんちりばめられており、それらの人物像はのちに拡大され、それぞれが独立した一個の作品となってゆきます。バルザック像以外のロダンの作品のほとんどすべてがこの『地獄の門』のなかにモチーフとして入っていると言っても過言ではありません。バルザック像はもう少し後年の作品で、1890年に取りかかり、完成したのは1897年のことでした。
私にとって重要だったのは、ロダンが常に進化し続ける芸術家だったということです。だからこそ、ロダンに興味を引かれたのです。この同じ時期にロダンは大量の官能的なデッサンを描き残しており、ロダン美術館には1万点以上のデッサンが保存されています。これらのデッサンは、バルザック像と同じくらいに重要です。彼の彫刻のなかに見られる生命、躍動、そして人間の肉体というよりも肉そのもの。そうしたものに私は興味を引かれました。
そしてまた、最終的なあのバルザック像にいたるまでの変化のプロセスにも。最初につくられたバルザック像はたんなるポートレートにすぎないものでしたが、最終的なものにまで進化・深化してゆく過程に心を奪われたのです。彼はバルザックという人物がもっていた巨大なエネルギーそのものを彫刻のなかに封じ込め、表そうとしたのです。巨大な人間喜劇を書いたバルザック、2500人もの登場人物を描き分けた人物の魂を、具象的に表現したもの、それがあのバルザック像なのです。
私自身、日本のことがとても好きで、これらのシーンを入れたのも日本へのオマージュからです。さらに、19世紀末、ヨーロッパ、なかでもとりわけフランスではジャポニスムのブームがあり、人々は日本へと目を向けていました。芸術家たちも日本美術に大きな関心を抱き、日本美術について多くのことが語られていたのです。ロダンにとっても同じでした。また、彼のもとには日本からも注文が入ってきていました。こうしたつながりが、ロダンの彫刻にも影響を与えていったのではないかと思います。自然に対するまなざし、散歩しているときにも自然を観察し、その摂理を考える。というのは、日本人の考え方では、自然と人間を隔てて考えるのではなく、内面と外面とを同じものとしてとらえます。そうした物事の見方に、ロダンは鋭く感じ入っていたと思います。
(オフィシャル素材提供)
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