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記者会見

トップページ > 記者会見 > 『A Bigger Splash』第72回ヴェネチア国際映画祭 公式記者会見

『A Bigger Splash』
第72回ヴェネチア国際映画祭 公式記者会見

2015-09-17 更新

ルーカ・グアダニーノ監督、ティルダ・スウィントン、レイフ・ファインズ
マティアス・シュナールツ、ダコタ・ジョンソン
デヴィッド・カジャニック(脚本家)、マイケル・コスティガン(プロデューサー)

abiggersplash


 アラン・ドロン&ロミー・シュナイダー共演の『太陽が知っている』(68)を、イタリアに舞台を置き換えリメイクした『A Bigger Splash』。第72回ヴェネチア国際映画祭でコンペティション部門に選ばれた本作の公式記者会見が開かれ、ルーカ・グアダニーノ監督をはじめ、ティルダ・スウィントン、レイフ・ファインズらが出席した。


監督、シチリアには多くの島がある中で、どうしてパンテッレリーアを選んだのですか?

ルーカ・グアダニーノ監督: 今回のアイデアはわたしがシチリア人であるということとは関係ない。ひと夏を放埓に過ごした人々についての映画を作ろうと決めたのは、本能の声に従ったからなんだ。4人の大人たち、異なった世代であり、世界の見方も異なる4人が欲望に弄ばれ、やがて沸騰点に達する……という要素にフォーカスすべきだと思った。
 そして、もう一人の主役が必要だった。その年月を経た壮麗さと雄々しさで4人を打ちのめし、他者の前に生身を晒さざるをえない状況に追い込む存在としてあり得るもの。そういう意味で、強烈な色彩と自然の荒々しさを併せ持ったパンテッレリーアは完璧な共演者となると思ったんだ。


悲劇的な出来事が起きた後、イタリアの俳優コラッド・グッツァンティが登場するコミカルなシーンがあります。イタリアの警察をおちょくっているようにも見えましたが?

ルーカ・グアダニーノ監督: ここにコラッド・グッツァンティがいないのは残念だ。崇高にして偉大な俳優である彼に、シチリアの警察官を演じてもらうというアイデアにはどうしても抗えなかった。私たちイタリア人にとってコラッド・グッツァンティがどれほど偉大な俳優であり喜劇役者であるかを思い起こすと、このあまりにも人間的な警官が表現しているのはアイロニーでも薄っぺらさでもないことはすぐに分かるはずだ。ここには何らかのパロディーが入り込む余地は全くない。それは断言できる。
abiggersplash 私たちを導いた記号、テキストといえるものの一つは、ヴェルディの「ファルスタッフ」だった。ヴェルディは皆さんがご存知のとおり、イタリアが誇るオペラ界の巨星ともいえる存在だが、ジュゼッペ・ヴェルディはなぜ80歳にして、その並外れたキャリアをオペラ・ブッファ(喜歌劇)で締めくくったのだろう。オペラ・ブッファといっても、深みのある珠玉のアリアがふんだんに散りばめられた作品ではあるけどね。ただ、真夜中の公園で迎える大円団では、歌手たち全員が観客に向かって「世の中すべて冗談だ」と謳う。
 では、今回の場合、何が「冗談」なんだろう? この映画はライブ会場でオーディエンスと一体になるシーンから始まる。彼らはマリアンヌにとって、顔の判別がつかない不特定多数のファンでしかない。それがラストでは、人間らしさ、自らが定めた理、見ず知らずの誰かに近づきたいという欲望に従う決心をする。これこそが「冗談」、運命のいたずらと言えるのではないかな。運命のいたずらを描くことに私はこれまでずっと興味があった。リスクを恐れ、罠が仕掛けられているかもしれない領域には足を踏み入れないような姿勢で映画を作るのだったら、作らないほうがましだと思うね。(場内拍手)


マティアスに質問です。抑圧されたキャラクターを演じられましたが、どのようにアプローチしたのですか? 共演者から影響は受けましたか?

マティアス・シュナールツ: 共演者からはある程度、必ず影響を受けるものだよ。演技には相合作用がある。共演者の演技があって、僕の演技もできてくる。アクションとリアクションだよ。演じるときには常に、真実味と誠実さを役から引き出そうとするものだ。共演者たちがやっていることに、純粋に心を動かせようとする。それが創造する過程で必要なことだと思っている。

abiggersplashルーカ・グアダニーノ監督: マティアスの演技に関して付け加えたいんだが、彼は役柄に完全に没入して演じるタイプで、役に惜しみなく自らを捧げ、かすかな変化をつけつつ、かなりの抑制をきかせながら演じることも厭わない。役者は時に自らを「見せる」演技をしたがるものだけどね。でも、映画にはまず語るべき「出来事」があるわけで、マティアスの素晴らしさは自らを「見せる」ことにまるで頓着していないことなんだ。でも、そうすることで、彼の素晴らしさが自ずと見えてくるのだけどね。

マティアス・シュナールツ: やったぜ~~(笑)!


映画では通常、肉体よりもまずは人格にアプローチするものだと思いますが、この映画では肉体から始まって、その人となりを浮き上がらせていますね。

ルーカ・グアダニーノ監督: それ以上に言い得た表現はないね。ありがとう。


パンテッレリーアの不法移民たちが登場しますが、あえてそうした副次的なシーンを挿入した意味をお聞かせください。

ルーカ・グアダニーノ監督: 1軒の家の中で繰り広げられる4人の人間の関わり合いを描くというアイデアは、外部の力によって現実と相対させられることにより、各々の不条理な欲望がさらされることで初めて生きてくる。そうした外部の力ともいえるものが、彼らに自分たちが本当な何者であるのかを理解させるんだ。それがパンテッレリーアであり、この境界地は登場人物たちに理解を求め、彼らの倫理観に疑義を呈する役割を果たしている。

ティルダ・スウィントン: ちょっと一言いいかしら。移民という呼び方は止めにしませんか? 彼らは難民、戦争難民なのですから。(会場拍手)


ダコタさん、ロリータ的な役を演じるのはいかがでしたか?

abiggersplashダコタ・ジョンソン: 私にとってはとても興味深く、慌ただしくも特別な経験だったわ。私は皆さんより少し後になってから撮影に参加して、準備の時間もあまりなかったので、状況を深く理解するのにもう少し時間があったらよかったんだけど、何とかうまくいったかな。ペネロペはものすごく頭の良い女の子だと思った。自分自身、そして自身のセクシャリティーと奇妙な形で折り合いをつけている子。自分と同等な立場にあると感じている大人たちに囲まれている若い女性であることの意味、それをどう使うべきかを探っている。本当は、そうした大人たちと同等でいるには人生経験が不足しているのに。脚本、この物語に魅了されたわ。監督とたくさん話し合った。……それくらいかな。


マティアスさんはご自身の役を演じられていかがでしたか?

abiggersplashマティアス・シュナールツ: 僕が演じたキャラクターは、撮影を始める6ヵ月前に人生を終わらせようとしていたが、やがて再び生きる気力を見出す映画作家だ。自分自身および他者との関係を再び立て直し、人生に新たな意味を見出そうとする人物を演じるのは、非常に興味をかきたてられることだ。その過程には、道を求めて彷徨する魂の長く興味深い軌跡があるからね。人は誰しも、程度の差こそあれ、自殺したいと思ったことはあるんじゃないだろうか。「もう駄目だ。この気違いじみた“人生”とやらは一体何なのだろう?」と考えたことはあるものでは? この映画では、登場人物たちがさまざまなレベルにおいて、自らにその問いかけをしている。前に進んでいこうか、それとも毒された過去に戻ろうか、と。ある意味、未知なる領域に歩を進めるより、人は汚染されていても慣れ親しんだ場所に戻るほうが居心地よく感じるものだ。だから、真新しいプールを造るより、臭くてもその臭いに慣れたプールに飛び込んだほうがいいって感じしまうものなんだけどね……ご質問の答えになっているかな(笑)?


監督、プールはあらゆるものの根本となる装置ですが、あなたはプールというより、この島全体を装置として使いました。ですから、オリジナル作品のタイトル“La Piscine”(邦題『太陽は知っている』(68)より“A Bigger Splash”は今作にふさわしいタイトルだと思いました。

ルーカ・グアダニーノ監督: そこから逃れられない場所であるかのような“島”というアイデアが気に入っていた。この“A Bigger Splash”というタイトルは傑作絵画(デヴィッド・ホックニーの1967年の作品)から借りたもので、アートをいかに読み解くかをわたしに教えてくれた作品だった。単純そうな見かけの奥に、深遠な意味が隠されているということをね。だから、映像に幾層もの意味を与える試みはその絵から学んだんだ。今回の映画でそれが成功したかどうかは分からないが、それこそがわたしの試みたかったことだった。


ティルダ、口をきかないキャラクターというのはあなたのアイデアだったそうですね?

ティルダ・スウィントン: ルカとはさまざまな映画について長い会話を続けているの。私たちのイマジネーションは尽きなくて、実際に映画になったものもあるし、これから映画化しようとしているものもある。でも正直言って、この映画はその中にはなかった。ルカがこの映画を準備していることは知っていたけど、私は参加する予定ではなかったの。でも、プランが変更になって、ある日の遅くにルカが私のところにやってきて出演を依頼された。その当時の私は、全く口をききたくない人生の一時期にあった。現在のようにしゃべることは全く不可能だったの。でもその一方で、どんな状況にあってもルカとそのスタッフとどこであろうと行ってみたい、パンテッレリーアに行きたい、素晴らしい俳優たちと共演したいと気づいたわ。だって、ルカとそのスタッフは私の家族みたいな存在だから。でも、この作品に私はどうしたら参加できるだろうと考えた。そこで思い浮かんだのが、話す必要がないなら出られるかも……ということだった。
abiggersplash あたかも自分自身と自分の人生を見ているかのように、そのことを考えれば考えるほど、登場人物たちの“閉塞状況”に貢献できるような気がしたわ。彼らは皆、言葉を通じて、あるいは他のどんな手段を使っても、互いに意思の疎通が図れないという状況と闘っているように思えた。(レイフ・ファインズの演じる)ハリー・ホークスはただ空疎にひたすらしゃべりまくるだけ。ルーカが受け入れるかどうか分からなかったけれど、とにかく提案してみたわ。パンテッレリーアに行けなくなるかもしれなかったけど。でも、ルーカは「やってみよう」と言ってくれた。それは、生身の私が置かれている状況から真正な何かを差し出すことと、口をきかない人、とりわけ人生を声ひとつで渡ってきたのに、ハリー・ホークスに言わせれば彼女のアイデンティティーともいえる声を失った人の生き方を探ることを組み合わせるような作業だった。声の才能に恵まれながらそれを失った人物を演じるのは、抗いがたい魅力だったわ。

ルーカ・グアダニーノ監督: ひと言いわせてほしい。私は、スタジオ・カナルの編集主任であるロン・ハルペムに心より感謝の言葉を捧げたいんだ。彼はいわば、この映画製作の立役者だよ。撮影前に草稿を見せたら、ただこう言ってくれた。「まあ、君は自分のやっていることがよく分かっているだろうから」って。(場内拍手)


レイフ、あなたが踊りまくる素晴らしいシーンについて語っていただけますか?

abiggersplashレイフ・ファインズ: この見事な脚本をディヴとルーカから渡されて、ハリー・ホークスという素晴らしい役をオファーしていただいた。脚本を読むと、映画が始まって20分後、「ハリー・ホークスは踊り出し、ダンスによって自分自身を表現する」と書かれてあった。私はこれまでそんなことを頼まれた経験はなかったので(笑)、すぐに「やります。ありがとう」と答えたよ。


ダンス・シーンの撮影はどれくらいかかりましたか?

レイフ・ファインズ: このシーンの撮影には1日充てられていた。でも、私はものすごく踊らなきゃならなくて、おまけに大部分は屋根の上で踊るシーンだったからね。だから自由時間にはいつも家から出て、iPodで曲を聴きながらひたすら踊っていたよ。こんな風にね……(と、腕を振り回す)。楽しかった。素晴らしい撮影監督のヨーリックのおかげで、撮影は午後だけで済んだよ。ホットな撮影だったね。


この映画にはたくさんの要素が含まれている(※「一度に多くの肉が火にかけられている」という慣用句で表現)と思いますが、もっとも重要なテーマは何ですか?

ルーカ・グアダニーノ監督: 「一度に多くの肉が火にかけられている」というあなたの表現にのらせていただくと、私は料理が大好きなので、これまで多くの偉大なシェフと知り合いになる恩恵を受けてきた。そして私が学んだのは、多くの素材を使おうとも、最も重要ないくつかの素材にフォーカスすれば、味はぼやけることがない、ということだった。
abiggersplash 今日何度か繰り返したように、わたしがこの映画で見極めようとしたのは、大人たちの間で繰り広げられる欲望の駆け引きと、それがどのような形で現実とぶつかるのかということだった。それが私の描きたかったテーマだ。また、コメディー色を出すということにも興味があったが、それは私にとって初めての挑戦だった。デヴィッドのおかけで、卓越したコミカルなシチュエーションを構築しつつ、それが次第にダークな領域に地滑りしていく……というイメージで描くことができたと思う。
 映画は全て、さまざまな好機に恵まれた産物だ。つまり、さまざまな人々――資金提供者、俳優、撮影隊の寛容な精神があって初めて創れるものだ。「映画は創られることも可能だし、創られないこともまた可能なのだ」と偉大な映画批評家のマルコ・メラーニは言ったが、まさにその通りだと思う。もし創るのだとしたら、自分自身や共に仕事をしている人々をワクワクさせ、楽しみを見い出せる作品にしたい。

デヴィッド、ルーカと映画を書くというのはどのような経験でしたか?

abiggersplashデヴィッド・カジャニック: このような経験は初めてだった。私はこれまでずっと10年ほど、アメリカの映画会社と仕事をしてきたが、彼らは自分たちが望むやり方で映画を製作する。ルーカはどうかというと、わたしをある場所に招いてくれて、1ヵ月かけて毎日じっくり話し合うことができたんだ。全体構成と人物設定を単純化してどんどん打ち決めしていくのではなく、それとは真逆の作業をした。すべてのネジを弛めて、機械を完全に解体し、一片一片は新たにつなぎ合わせて、全く異なったエンジンを組み立てたんだ。俳優、セット担当、撮影監督らの意見にも常にオープンな姿勢だったのを思い出す。大家族のようだった。誰もが自身の抱える愛情や執着や不安などについて自由に語り合えるような、とても人間的で素晴らしい現場だったよ。もう他のやり方はできないと思ったね。


ファクトリー・ティータイム

 気だるげでデカダンな、おフランスの太陽の下で繰り広げられる密やかな愛憎の物語に比べると、思考を停止させるようなギラつくイタリアの太陽の下で日陰の如く浸潤してゆく不機嫌と不具合のドラマは、個性なのか今の精神状態なのか、どこか危うげな佇まいだったティルダ・スウィントンと、インテリジェンスと豊かな感性の持ち主である監督のコラボ色を強烈に感じさせる作品となっていた。そのなかで、これまではほぼ陰鬱で屈折した役柄ばかり充てられてきたレイフ・ファインズが、空疎にしゃべりまくり狂ったように踊りまくり……と、ポップにはじけた演技で目を奪った。コメディー色のあるキッチュな役はこれまでにもあったにしろ、ここまで針の振り切ったようなはじけっぷりはご本人にも新鮮だったようで、“(元?)憂鬱の貴公子”のファンとしては、今後この路線が増えるのではないか……と一抹の不安を覚えたり。

(取材・文:Maori Matsuura、photos:72th Venezia Film Festival official materials)



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