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トップページ > インタビュー > 『いつか眠りにつく前に』ラホス・コルタイ監督 インタビュー

ラホス・コルタイ監督 インタビュー

2008-02-22 更新

大きな出来事はなくても、温かい人生だったらそれで十分素敵だ

いつか眠りにつく前に

ラホス・コルタイ監督

1946年4月2日ハンガリー、ブダペスト生まれ。当初は撮影監督、現在は監督として、国際的に注目を集める映画製作者である。 ブタペストの演劇・映画アカデミーで学ぶ。カメラマンとして脚光を浴びたのは、同じくハンガリー出身の監督イシュトヴァン・サボーとの四半世紀にわたるコラボレーションによる。アカデミー賞外国語映画賞ノミネートとなった『コンフィデンス/信頼』(80)、アカデミー賞外国語映画賞を受賞した『メフィスト』(81)、アカデミー賞外国語映画賞ノミネートとなった『Colonel Redl』(85)と『ハヌッセン』(88)、グレン・クローズが主演した『ミーティング・ヴィーナス』(91)、ジニー賞最優秀作品賞を受賞した『太陽の雫』(99)、アネット・ベニングがゴールデングローブ賞を受賞した『華麗なる恋の舞台で』(04)、そして最新作の『Rokonok』(06)などがある。 ジュゼッペ・トルナトーレ監督とのコラボレーション作品も、ヨーロッパ映画賞およびダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞受賞した『海の上のピアニスト』(99)や、アカデミー賞撮影賞にノミネートされ、ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞を受賞した『マレーナ』(00)などがある。またルイス・マンドーキ監督とは『ギャビー、愛はすべてを越えて』(87)、『ぼくの美しい人だから』(90)、『ボーン・イエスタデイ』(93)、『男が女を愛する時』(94)などで仕事をしている。
他にも、ジョディ・フォスターが監督し、10代のクレア・デインズが出演していた『ホーム・フォー・ザ・ホリデイ』(95)、メノ・メイエス監督作『アドルフの画集』(02)などがある。
2001年、ホロコースト体験を経て人生の旅をする少年を主人公とした、同じくハンガリー出身のノーベル賞作家イムレ・ケルテースの自伝的小説「運命ではなく」の映画化にあたり、脚本も手がけたケルテースから監督を依頼された。完成した映画『Fateless』(05)は、アカデミー賞外国語映画賞部門のハンガリー代表作品となった。この作品は、ハンガリー映画祭やベルリン国際映画祭を皮切りに全世界約60の映画祭で上映され、世界各国で絶賛を受けた。
本作の脚本家のマイケル・カニンガムとプロデューサーのジェフリー・シャープが『Fateless』に感銘を受け、コルタイは『いつか眠りにつく前に』の監督に抜擢されたのである。

配給:ショウゲート
2月23日(土)日比谷みゆき座ほか全国ロードショー
(C)2007 Focus Features

 死の床にあって過去を悔いながらも、生涯忘れられない人の名をつぶやく母。これまで決して口にされることのなかった母の秘密に触れ、自らの人生を見つめ直す娘たち。ひとりの女性の記憶を旅しながら人生の機微を繊細に描いた心に染みる愛の物語『いつか眠りにつく前に』の公開を前に、ラホス・コルタイ監督が来日。名立たる監督たちの名カメラマンとして活躍、メガホンを取ったのは本作が2作目となるハンガリー出身の監督がエネルギッシュに語ってくれた。

-----現実と過去を行き来しつつ、現在の娘たちの現実があり、母親の死に近づいていくときのファンタジーが入り込むような瞬間もありましたが、そうした時間軸の偏差や現実と夢との交差を描く上で、どのようなことを腐心されましたか?

 そうした入り組んだ構造だったからこそ喜んでやったんだ。とても良く書かれている脚本で、非常にうまく構成されていた。素晴らしい脚本を頂いたと思ったね。脚本で変えたい部分があるかスタジオに問われたときにも「ない」と答えたくらい、良く出来た脚本だった。ただ、実際に映画になったものよりはちょっと複雑で、文学としてはいいが映画には向かないなと感じたところはあった。記憶のシーンが常に後ろから進むように書かれていて、分かりにくかったんだ。だから、それをある程度普通の形に戻すことはした。それでもなおかつ冒険的で、映像化するには難しい脚本だったが、だからこそ私は気に入ったんだ。話がストレートに進む映画も簡単だとは言わないが、これより易しいのは確かだ。
 それに加えて、最も私の興味を引いたのは、ヴァネッサ・レッドグレイブ演じるアンの記憶だった。彼女の思考は完全な自由を獲得している。その自由に私は魅了された。彼女は時間の感覚を失い、時代を自由に行き来している。彼女はあらゆるものを自分のベッドの中に招き入れ、自由に記憶の中を旅しているんだ。薬のおかげで意識が朦朧としているから、ということもあるけどね。そんなわけで、私もひたすら彼女の心に従うように努めた。これはフラッシュバックではなく、ただ彼女の心の中に踏み込んだものだ。その心に従って撮影したんだ。私が最も格闘したのは、その自由な記憶の飛翔をいかに自然に見せるかということだった。

-----メリル・ストリープとメイミー・ガマーは実の母子ですね。時代を越えて同じ役をやっています。お二人にはどんなことを求められたのですか?

 二人が実際の母子だというのはやはり、大きな利点があった。私は昨年2月にメイミー・ガバーを見出したんだが、彼女が誰の娘かなんて全く知らなかったんだよ。彼女をキャスティングしたのはただ、オーディションで出会ったときに、実に素晴らしい才能のある女優だと思ったからだ。私は彼女に、結婚式の朝、ベッドにいるシーンを演じてもらうことにした。彼女にとって一番難しいシーンだからね。メイミーは素晴らしく演じてくれた。でも私は「もっと感情的で深い演技をしてみてほしい」と要求した。台詞は教えず、ただ彼女は今どんな気持ちなのか、この朝は何が違っているのかを説明した。子供の頃からずっと使っているベッドの中にいて何もかも同じなのに、心の中では“何もかも間違っている”と感じているんだ、と。そうやって説明しているうちに、彼女は突然感情が揺さぶられたようで、ほとんど泣き出しそうになったんだよ。それで、そのシーンをもう一度やってもらったら、本当に深い演技を見せてくれた。それで私がスタッフに「何てことだ、彼女は実に素晴らしい。実際、メリル・ストリープに似ているところがあるしね」と言うと、「ええ、彼女の娘ですから」と(笑)。誰一人私にはそのことを言わなかったんだよ!
 もちろん、みんなが一番出演してほしいと願っていたのは彼女のお母さんだ。でも「彼女に出演してもらうのはかなり難しいよ」と言われていたんだ。結局受けてくれたけどね。「私が出演したいのは、何も娘のためじゃないの。ヴァネッサとの信じられないほど素敵なシーンがあるからよ。あのシーンこそ、この映画の一番の見どころだわ。あそこを演じてみたい。もちろん、娘とも共演してみたいけど、それが理由じゃないの」と言っていた。そして、こうも言ったよ。「娘を超える存在としてこの映画に参加したいんじゃない。この映画では私より娘のほうが大切な存在だわ。宣伝に私の名前を使うべきじゃない。私はここでは一つの役を演じているのにすぎないんだから」と。

-----メリル・ストリープが演じたいと言ったという、ヴァネッサ・レッドグレイヴとベッドに横たわりながら語るシーンはまさしく、私が最も心打たれたシーンでもありましたが、撮影されながらお二人が演じているところをご覧になっていかがでしたか?

 あのシーンは撮影の一番の山場というだけでなく、私の人生における最高の瞬間だったと言ってもいいくらいだ。あの二人と同じ時間を共有できて、本当に幸せだったよ。とても自然な成り行きでああいうシーンになったんだ。40年ぶりに病床にある友人を訪問したら、ベッドのそばにある椅子に座るのが自然だよね? 少し距離をとるんじゃないだろうか。死につつある人のそばに行き、その苦しみを感じるのは怖いことでもある。でも、私がメリルに「ベッドに近寄ってください」と頼んだら、彼女はすぐ、ごく自然にベッドの上に横たわったんだよ。まるでそれが当り前であるかのように。メリルは「こういうシーンに決まりはないのよ。こういう形って、これまでなかったでしょ? 二人はある意味、自由なの。こういう状況では何が起こるかなんて、誰も分からないものよ」と言っていた。そんなわけで、私が頼んだわけではなかったんだが、彼女は眼鏡を外し、お互いの顔が間近になるようにして、自由に目で語り合えるようにしたんだ。実に素晴らしいアイデアだった。そうすることによって彼女たちは親密さの中で過去のこと、人生の意味について語り合うことができたわけだ。二人とも、とても素晴らしく自然な演技を見せてくれた。この撮影をしているときは、何だか天国にいるような気分だったね(笑)。

-----監督がこの作品で伝えたかったことは何ですか?

 メッセージは一つではなくたくさんある。その一つは、人生の旅立ちのためにしっかりと心の準備をしておくべきだということだ。つまり、死を迎える時には、出来るだけ望ましく優雅なやり方で別れを告げるのがいい。少なくとも、自分が死に向かいつつあることを自覚できる状態にあるのならね。周囲の人々もそうだ。この映画でいえば娘たちだが、義務感からではなく、できるだけ温かく送ってほしいと思う。とても長い旅に出るわけだからね。その時にそばに誰かがいてくれるのは良いことだ。
 この映画には、もう一つ大切なメッセージがある。質問したいのなら、遅すぎないようにしたほうがいいということだ。この映画の中では、とても大切な質問があるのに、娘たちは母親に訊ねるのが遅すぎた。母親は自分が旅立つことに忙しくて、もはや新しい命の話をされても応えられないんだよ。明日はどうなっているか分からない人にはもう、質問することはできないものだ。最愛の恋人のことについてさえね。だって、彼女は死に向かうという大きな仕事に取りかかっているのだから、それどころじゃないんだよ。
 それから、三番目の本質的なメッセージは、たとえシンプルすぎるものであっても、自分の人生に満足すべきだということだ。シンプルであっても、真実があり温かい人生だったらそれで十分素敵じゃないか。人は人生において何か大きなことを期待するものだが、おそらくそんな必要はないんだよ。良い家族がいて、自分に合ったパートナーがいて、子供がいて成長するというだけでとても大きなことだ。映画の最後のほうで、メリル・ストリープが演じている役も言っているね。「それは大変なことなのよ」と。アンはきちんとした母親になりたいと思いつつ結婚生活に失敗し、大したキャリアも築けなかったが、彼女には少なくとも2人の子供がいる。それは今の世の中においては大きなことだ。それだけで十分幸せなことだと思うね。家族と共に、出来るだけ良い時間をもてるようにしてほしい。最後の瞬間に幸せな気持ちで思い出せるような家族の時間をね。

-----これまで名立たる監督たちのカメラマンを経験されてきたわけですが、ご自身が監督をされる上でどんなことを学ばれましたか?

 多くの監督たちと仕事をしてきたが、今誰よりも思い出すのはイシュトヴァン・サボーとジュゼッペ・トルナトーレだね。主にこの2人の監督に影響を受けた。
 イシュトヴァン・サボーから学んだのは俳優のことだ。俳優に対してどう振舞うべきか、どのように対処するか、それぞれの演技スタイルを見出し、いかに彼らにお願いをし要求をするか、彼らに対してどのように「ありがとう」と言い、いかに褒め上げ、気持ちを損なうことなく演技を修正してもらうか――、それを学ぶのは簡単なことではない。今回の役者たちは皆、心を開いて素晴らしい演技を見せてくれたので、とても助かったね。もちろん、私なりのスタイルというものはあるが、イシュトヴァンは常にそうしたことを教えてくれたんだ。
 トルナトーレは非常に強いビジョンを持っている監督だ。彼は俳優の扱いが得意ではなく、あまり世話をしない。俳優があまり好きではない監督なんだ。彼が一番好きなのは映像だ。そういう意味ではスタンリー・キューブリックもそうだね。彼も俳優のことはあまり頭になく、映像が何より大切なんだ。そんなわけで私は、『海の上のピアニスト』と『マレーナ』を撮影したときに、トルナトーレから多くのことを学んだ。いかにフレームを決め、その映像によって観客にメッセージを伝えるかということをね。
 この二人には大きな影響を受けたよ。

ファクトリー・ティータイム

私が敬愛する映画監督の一人、昨年お会いすることが叶ったイシュトヴァン・サボー監督の『コンフィデンス/信頼』『メフィスト』から『華麗なる恋の舞台で』まで撮影監督を務めたのがまさに、サボー監督と同郷のこの方だったのだ。もちろん、映画は監督のものだろうが、ほとんど狂気にも近いとさえ言いたくなる壮大なイマジネーションに映像で応えてきた撮影監督の功績は計り知れず、そこで培った美学は今作でも確実に活かされている。
ラホス・コルタイ監督の前には、やはりハンガリーの若き監督、『タクシデルミア ある剥製師の遺言』のパールフィ・ジョルジをインタビューした。帰り際にそのことをお話しすると、「彼の映画が日本で公開されるのか?」と興味を示された監督。「映画はどうだった?」と訊ねられ、思わず言葉に詰まってしまったのは、あらゆる境界を超え奔放に飛翔するハンガリアン・イマジネーションを表現する言葉と時間が欠けていたからだ。
(文・写真:Maori Matsuura)


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