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トップページ > インタビュー > 『レディ・チャタレー』パスカル・フェラン監督 インタビュー

パスカル・フェラン監督 インタビュー

2007-10-28 更新

私はロレンスの本を読んで、彼が伝えたかったであろうことを、そのまま映像として伝えたいと思った

レディ・チャタレー

パスカル・フェラン監督

1960年生まれ。大学で映画を学んだ後、IDHEC(フランス国立映画学院)に入学。ここでアルノー・デプレシャンやエリック・ロシャンらと交流を深め、卒業後はジャン=ピエール・リモザン監督の『夜の天使』(86)の脚本を担当したり、短編映画を製作。アルノー・デプレシャン監督の長編監督デビュー作『魂を救え!』(92)や中編『二十歳の死』(91)の脚本に参加。そして94年に 『Petits arrangements avec les morts』で長編監督デビューを果たし、カンヌ国際映画祭で新人監督賞(カメラ・ドール)を受賞。第二作『a.b.c.の可能性』(95)では、ストラスブール国立劇場付属演劇学校の生徒10人のさまざまな不安や悩みを活写し、ヴェネチア国際映画祭国際評論賞に輝いた。11年ぶりの新作にして、長編第三作の本作は、2006年度のセザール賞で9部門にノミネートされ、作品賞、主演女優賞、脚色賞、撮影賞、衣装美術賞の5部門で受賞。

配給:ショウゲート
11月3日(土)より、シネマライズほか全国順次ロードショー
(C)Maia Films - Saga Films - Arte France Visa d'exploitation n゜110 132 - Depot legal 2006 Tous droids reserves

20世紀を代表する英国作家の一人、D.H.ロレンスの「チャタレー夫人の恋人」。これまで世界中で映画化されてきた小説だが、本作『レディ・チャタレー』は、フランスの女流監督パスカル・フェランが新たな観点から映画化を試み、第32回セザール賞で5部門を受賞するなど、本国で高い評価を受けている。「猥褻か芸術か」と世間を騒がせた「チャタレー裁判」から50周年を迎える日本で、公開前にパスカル・フェラン監督が来日、原作への深い想いを語った。

-----今までにも「チャタレー夫人の恋人」が映画化されてきましたが、なぜ今回第二稿を映画化されようと思ったのですか? また、なぜ「チャタレー夫人の恋人」だったのでしょうか?

 第三稿も読んだけど、二稿のほうが非常に感動的だったの。三稿は二稿に比べて非常に説明が多いわ。登場人物たちもそんなに大きな違いはないんだけど、少し違う。特に、パーキン。体つきも二稿と三稿は異なっている。性格もすごく違って描かれているの。三稿に出てくるパーキンは、自分に対する説明がとても多い。それに対して二稿のパーキンは恥じらいがある人として描かれている。私は三稿よりも二稿のほうがより感動的であると思ったので、二稿で映画を作ることにしたの。
 また主人公の二人の内面的な変化が顕著に出てくるのも二稿ね。特にパーキンにおいては、言葉少なく描かれていて、ただ、ラストに自分の思いを言葉で表現している。そういう変化が描かれており、その部分がとても好きなの。

-----主演の2人の起用理由ですが、体つきがすごく重要だとおっしゃっていたと思いますが、いかがですか?

 そう、どのような肉体を持っているのかというのは、キャスティングの上でとても重要だった。それはやはり、外観の肉体から社会階級が分かるから。特権階級の人と土と密着している人とでは、当然ながら体つきが違う。それはもちろん、俳優たちの演技力でカバーもするけど、それ以上にまず体つきを見ただけでどういう出身の人なのか分からせるのも大切なことだわ。
 マリナ・ハンズは迷うことなくすぐに決まったの。彼女の演技は素晴しかったので、彼女のことは常に頭にあったわ。それ以外にも4~5人候補の女優はいたけど。その中でとりあえず彼女と会って、その時に素晴しい女性だと思ったの。演じる彼女自身がこの作品を好きになるかならないかも、すごく重要だった。何故なら、撮影期間がとても長いし、準備もとても時間がかかるわけで、彼女がこの作品に拘束される時間はものすごく長いから。だから、肉体的にも拘束されるけど、深い親密感をこの作品に対して彼女が持ち得ないと難しい。彼女と私の出会い、彼女とコンスタンスという役の出合いはちょっとした奇跡だと思っているわ。
 パーキンという役柄を演じられる体系の男優というのが、フランスには少ないの。探すのに本当に苦労したわ。やはり、土着的な体つきをしていなければいけない、後は、役者としての色気の部分も必要だった。フランスになかなかいないタイプの俳優だわ。キャスティング担当の方を通して、ジャン=ルイ・クロックを紹介されたの。ただし、その時の彼は映画の経験がなかった。舞台で若干の演技の経験はあるけれども、俳優としての経験はほとんどない状態だった。でも、舞台を観に行き、小さな役だったけど、とても存在感があって輝いていたわ。最終的には彼しか、パーキンを演じられる人はいないと感じたの。

-----コンスタンスとパーキンが裸になって、花や草を飾りつけるシーンや、裸で外に飛び出していくシーンがとても好きなんですが、あのシーンはどのような意図で撮られたのでしょうか?

 花のシーンは映画でもとても重要よ。恐らくロレンスにとっても重要だと思う。二稿にも三稿にもあのシーンだけがほとんど同じように出てくる。
 また、雨のシーンはとても好きね。あのシーンは喜びを二人が精一杯表現している。映画の中での喜びのほうが本よりももう少し強く出していると思うわ。時代背景は、第一次世界大戦が終った頃で、本の中でも「今の時代は悲劇的だ」とロレンスは書いている。この様々な困難を克服して、人は生きていかなければいけない。自分たちの前に立ちはだかった壁を乗り越えながら、遠回りしてでも人は生きていかなければいけないのよ。
 雨の中で走り回るシーンというのは、あれは本当に喜びを喜びという視点から彼らの性愛を描いている。コンスタンスとパーキンとの関係性は、何回もの性行為を重ねてあの地点に至るわけだけど、そこであの二人というのは、子供たちが喜んで裸で雨の中を走り回るのと全く同じような形で、愛を表現しているわ。あのようにして裸で雨の中を走り回るという行為は、非常に子供じみているわね。6歳とか、7~8歳の子ようなことを彼らがやるわけだから。その年代の子供というのは社会のバリアを感じることなく、無意識に喜びを喜びとして表現する。それをあの歳になって、彼らがやっているというのが重要なの。
 花のシーンに戻ると、あのシーンにはいろいろな意味が読み取れると思う。愛し合うカップルというのは、性の関係が本当に親密になっていくと、いろいろなことをするもので、他愛のない二人の時間の過ごし方として、傍から見ていると馬鹿らしいと思うような行為をすることも、ままあるものね。
 あともう一つは、特に女性という観点で注目すると、受け身の彼女と能動的な彼女が見られるわ。あの時代の女性というのは、ほとんど社会の中で支配される側であり、男性は支配する側だった。それは社会的だけではなく、男女の性の関係においても同じことだったわ。  パーキンとコンスタンスは何回もの出会いを繰り返すうちに、彼女が彼を触って、その次に彼女は初めて能動的なことをする。そのことを経て、彼女はものすごく受け身だった自分からちょっと能動的な自分に変わっていく。だからあの花のシーンから花を彼の体に、彼が彼女の体にと、お互いが受け身だったり能動的だったり、どちらの方向にもいける状況になるの。
 あと、もう一つは、このシーンを通して、両方が能動と受動を行ったり来たりできる関係になるというのが良く分かるわ。この映画の中では常に自然が背景に使われているんだけど、あのシーンにおいては自然が前面に出てくる。それもビジュアル的には非常に面白いと思うわね。
 二人があのような裸体を見せるに至るまで、映画としては2時間以上経っている。その2時間でいろいろな過程を経て、彼らはここで初めてお互いの体を見る関係になるわ。それはただ単に体を見る、裸になるということではなくて、二人の心が一つになるということを表している。だから、私もあのシーンが好きなの。

-----『a.b.cの可能性』の時もそう思いましたが、監督には独自の視点があると思います。私は実際ロレンスを読んだ時、本作を観た時のように感動しませんでした。
ロレンス以上に監督は二人を理解していたのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?

 いえ。映画の中のラスト・シーンというのは、第二稿の本のラスト・シーンとほぼ変わらないし、セリフもほとんど本の中のセリフと変わっていない。私は本を読んだ時、ロレンスは天才だと思ったわ。

-----フランス人は愛の映画が多いですし、愛のことに詳しいと思いますが、愛に縛られている、解放されたいと思っているのでは?

 私はロレンスの本を読んで、彼が伝えたかったであろうことを、そのまま映像として伝えたいと思った。特に、あの物語の中での経験を観客にも感じて欲しい。彼らが築き上げていくことを、観ている人たちも同じように経験しているような感覚を抱いて欲しい。彼らと経験を分かち合って欲しい。それは彼女たち、登場人物の精神的な変化よりももっと、触れ合っているシーンとか、森の匂いや、嗅覚、そういったものも同じように感じられるように撮りたいと思ったの。そのような感情を、ロレンスの作品を初めて読んだ時に強烈に覚えて、スクリーンで描きたいと思った。「レディ・チャタレー」というのは世界中の多くの人たちが読み続けている話だけど、私が読んだ時に感じたのは、今まで出会ったことのないラブ・ストーリーだということだった。このような物語と今まで出合ったことがないというような、その感じを映画の中で描き、観客に伝えたかった。自分の物語として現在進行形で、これからどうなるのだろう、どうなるのか分からないという状況に至るまでの感覚を経験して欲しいわ。

(文・写真:オフィシャル素材)


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