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『さよなら、退屈なレオニー』
オフィシャル・インタビュー

2019-05-13 更新

セバスチャン・ピロット監督


さよなら、退屈なレオニーsayonara-leonie
© CORPORATION ACPAV INC. 2018
配給:ブロードメディア・スタジオ


 2018年東京国際映画祭にて上映され、輝きを放つ若手キャストに贈られる<ジェムストーン賞>を受賞した『さよなら、退屈なレオニー』。2018年カナダでスマッシュヒットを記録した本作は、自分がやりたいことも自分の居場所もみつからない、カナダの小さな街に住む17歳の少女レオニーの物語。カナダ映画界の新世代として注目を集めるセバスチャン・ピロット監督のオフィシャル・インタビューが到着した。


何をきっかけに『さよなら、退屈なレオニー』を作ろうと思ったのですか? 写真、言葉、アイデア、もしくはこういう映画を作りたいという欲望でしょうか。初めて観た時、この映画はあなたの前2作『Le Vendeur(セールスマン)』、『Le Démantalement(破壊、解体)』とはまるで違う印象を持ちました。それは狙いですか?

 前2作よりも見やすい作品を作ろうと思ったのは確かです。それで、この作品には、大衆的な映画の形、少なくともそういう見かけを与えようと思いました。叙情的な要素はなくし、シンプルでダイレクトなスタイルで作りたかった。各カットがまっすぐに目的へと向かうようにしたかったのです。映画を文学作品に例えるなら、簡素で、短く、よけいな修飾語はないけれど、メタファーやアレゴリーを恐れない文章でできた小説だと思います。バンド・デシネや歌だとしても同じです。最初から言っていることですが「ポピュラーソングのように響くように考案した」のです。映画は消えたり現れたりする一つの小さな歌、心に付きまとうようで逃げていく音楽のようであるべきです。当初は大きく洗練された動きを持った動きのある映画を思い描いていましたが、結局は違ったアプローチへと方向転換しました。映画に「そぞろ歩き」の要素を与えるというアイデアはそのままに、もっと正面からの演出を増やしたのです。
 つまり、私の他の作品との一番大きな違いは、トーンだと思います。『さよなら、退屈なレオニー』はコメディドラマのトーンを持っています。笑顔で作った映画です。もしこの映画が(以前の作品と)違うように見えても、他の作品と同様に、私自身のヒューマン・コメディーに根付いています。


レオニーとスティーヴのストーリーがこの映画の中心だとしても、社会政治的な背景が重要な要素になっています。この映画の二つの側面、個人の親密さと社会性について話してください。

 レオニーは2つの正反対の父親像の間に位置しています。彼女の個人的な状況は社会政治的な状況にも見えるでしょう。彼女はうるさくてポピュリスト、言わば偽の先唱者、影響力のある義父にまとわりつかれています。彼はラジオの王様で、旬の男です。一方で、彼女が愛する理想主義者の父がいますが、彼は不在です。いなくなった父親……ある意味、違う時代の王様でしたが、今ではそうではありません。レオニーのセリフですが「矛盾だらけの家族」です。そして、こういう状況において、レオニーは、二人の父親の間に3人目の父親的な存在、「代用(の父)」というべき存在をスティーヴに見出します。彼は時の外に位置する人物で、3つめの道筋です。レオニーがある時、この3人の父親的な存在を混同したり、彼らを拒否するのが面白いのではと思いました。


この映画は遠回しな印象です。何かを話している(例えば青春のこと)が、実は多くの他のことを示唆してる。

 これは青春映画ではありません。これは私にははっきりとしています。言うなら『Le Vendeur』が車のセールスマンの映画、『Le Démantèlement』は酪農家もしくは羊についての映画というのと変わりません。
 曖昧さ、青春映画の見かけを利用したことは事実です。「カミング・オブ・エイジ」的な側面も見えるでしょうが、この面からのみこの映画を見るのは間違いだと思います。例えば、今の若者の自然体のポートレイト、今の若者の心理を撮りたかったわけじゃありません。もっと普遍的なものを撮りたかったのです。私の他作品と同様に、私が狙ったのは、このストーリーを通して、今日のケベックのポートレイトを撮ること。時代のポートレートです。遠回しにはしました。アイデア、直感、ある映像が頭に浮かび、次にそれを語るためにストーリーを構築します。これが私のやり方なのです。


レオニーのストーリー以上に、何が映画の真の主題だと言えますか?

 これは付きまとうシニズムとその治癒薬である、大きな意味での愛についての映画です。無知についての映画でもあるかもしれません。変だと思われるかもしれませんが、ある意味、今までの作品の中で一番政治的な映画だと思います。なぜなら世界がファシズムの新しい形へと向かっているのでは、という感情を持って作った映画だからです。時に希望の微光が灯る時、それは断続的な光であるか、ほとんどの場合目に見えません。


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映画のタイトル(※原題=「蛍はいなくなった」)のせいかもしれませんが、今作のヒロインは『Le Vendeur』や『Le Démantèlement』よりずっと若いにもかかわらず、彼女もまた、何かの「消失」に対面しているように思えます。これはあなたが特に興味を持っているテーマなのでしょうか。

 私はちょっとした「世界の終わり」が好きなんです。不在の人、不在そのものが好きです。この映画の場合、「消失」で私が呼び起こすのは、「消失するもの」はもう見られないものである、という考えです。もう私たちの前には存在しない。見られないのです。それが私たちの視界から離れたのか、私たち自身がそれから離れたのか……。英語でいう「vanishing point(消失点)」です。
 レオニーは逃げがちです。冒頭のシーンでは八方塞がりの印象を与えて、レオニーがそこから逃げるようにしたかった。レオニーはその場から不意にいなくなります。その場から離れつつ、何かを置いていく。「消失」の概念で私が感嘆するのは、それが親密に「出現」と繋がっているところです。何かが消える時、間も無く何かが現れるものです。


映画のタイトル(※原題=「蛍はいなくなった」)にもなっている表現は何を表していますか?

 昔の映画館で、イタリア人にとっては、「ホタル」は、小さな灯りを持って客を席に案内する若い女性のことでした。もぎり嬢です。ある意味レオのような人です。
 タイトルの『蛍はいなくなった』は、新しいファシズムについて語るために、イタリアで突如としていなくなったホタルをアレゴリーとして記したパゾリーニから影響をうけました。「コリエーレ・デッラ・セーラ」紙に掲載された「ホタルの記事」の中にあります。パゾリーニによれば、夜に光る小さな光「la luce」はプロジェクターや、娯楽施設の強すぎる光やスピーカーの大きな音で見えなくなったのです。微光をよく見るために照らすことはできません。光の下で、微光は消えるのです。光はある物を出現させたり、消失させたりできます。このタイトルはこの映画を観るためのキーや道筋となります。強制はしませんが……。


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レオニーとスティーヴはありそうにないカップルですが、一方でとても引かれあっています。こういうカップル像をイメージしていたのでしょうか?

 レオニーとスティーヴが予想に反して結ばれるところを見てみたい、という欲望を観客に呼び起こしたいと思っていました。この映画はこれを基盤にしています。「ありそうにないカップル」、不ぞろいで、不似合いで……これらの表現を私も(このカップル像を作るのに)使っていました。劇中の登場人物にとっても、観客にとってもあいまいな関係を作り出したかったのです。
 スティーヴは単純さ、愛です。ロマンティックな愛ではなく、もっと大きな愛です。彼は音楽でもある。この3つの概念は私にとってはこの映画の中で切り離すことができないものです。スティーヴは純粋です。彼の物事の見方はシンプルで時におめでたくもある。それにレオニーは惹かれるのです。彼には嫌みがありません。野心もほとんどない。彼は人生を冷めた目で見てはいません。批判もせず、うまくやります。この温かく率直な人生の物事の見方が、ある意味でレオを変えるのです。


この映画の中で音楽は大変重要な役割を果たしています。どのような意図で音楽を使用しましたか?

 ゲンズブールはランボーについて語る時、こう言っています。「詩はその純粋たる状態においては、音楽を必要としない。それが腹の立つところだ。俺は音楽が好きだからね」(笑)。
 音楽が愛、おめでたさ、純粋さの要素を映画にもたらすようにしたかった。なので遠慮せず、「気前よく」使いたかった。不思議なことに、これは音楽に対して禁欲的であろうとする以上に難しかったです。映画に大衆的な形を与えようとしたことも、音楽の多用に繋がっていると思います。


使用されている歌のリストは驚きですね。

 使用したポピュラーソングが、リストにした時には驚きました。ヴォイヴォドからミシェル・リヴァール、フェリックス・ルクレールからターナー・コディ、ラッシュの『スピリット・オブ・ラジオ』からアーケイド・ファイア。トミー・ジェイムス&ザ・ションデルズの『クリムゾンとクローバー』。編集のステファン・ラフルールは映画人でもありミュージシャンでもあって、多くのアイデアをくれました。


それに加えて、フィリップ・ブローによるオリジナルの音楽が非常に美しく、際立っています。

 フィリップ・ブローのオリジナル曲については、撮影中からトゥーマッチで、存在感が強すぎるくらいの、映画のトーンとは少しずれたようなものをイメージしていました。「栄光の30年間」の映画のような魔法が欲しかった。フィリップはワグナーの『トリスタンとイゾルデ』と、バーナード・ハーマンから着想を得ました。特に『めまい』の愛のテーマの盛り上がるところです。フィリップ・ブローはとてつもなく大きな挑戦をしました。とんでもない注文でしたから。彼の音楽はこの映画の中で大きな愛の要素をもたらしています。


主要キャストとはどのように仕事をしたのですか? またどのように起用を決めたのでしょう。

 カレルは直感的で先天的な才能を持った女優で、それを壊してはいけないと思いました。無垢のまま活かしたかった。可能な限りその「原水」を汲み取りたかったのです。俳優たちは彼らのあり様、いえ、こちらに見える彼らのあり様で決めました。作られた役というのは時に素晴らしいですが必須ではないし、時によけいだと思います。作り出さない、ということが必要な時というのがあるのです。私はただそこにいて、俳優たちに与えた自由を手に掴もうとしました。
 私の14歳の娘のロマーヌがカレルのことを教えてくれました。彼女が端役を演じているのは見たことがありましたが、娘がテレビを見て私に話をした時に、初めて注意を引かれました。彼女の存在感に驚いたのです。私の娘も同様です。そしてアンヌ・エモンドの『Les êtres chers』を見ました。
 ピエール=リュックについては『Le Démantèlement』で小さな役を演じてもらっていましたが、この時にもっと大きな役をやらせたかったと後悔していました。それを取り返すのが今だと思ったのです。今回はマリー=フランス・マルコットについて同じような後悔を感じました。母親の役はやや引いている存在でいて欲しかった。私が映画で伝えたいことを語るためにそれが必要だったのです。でもマリー=フランスを目の前にし、彼女が与えることができるものを見た時に後悔しました。リュック・ピカールとフランソワ・パピノーについては、彼らの役を反対にするかどうかしばらく悩んでいました。「反対にする」アイデアが面白く、奇をてらったものだったからこそ、最初の考えに戻りました。時に、自分の考えとは真逆に、タイプキャスティングを選ぶこと、あまりオリジナルでないことを選択するというのは、最適解であり、また、非常に難しい決断でもあると思います。


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(オフィシャル素材提供)




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